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2008年12月

来年も…このブログを続けることが、とりあえずの目標です

久方ぶりに再開したこのブログですが、主婦ゆえ年末年始は記事を書く時間的余裕がありません。

私事ながら、年明けにはひとり息子がいよいよ大学入試に挑戦です。本人は某有名私大に進学希望のようですが、親としては本人が最善を尽くして合格できた大学が、本人の進むべき場所と言うか、どこの大学であれ、そこで充実した学生生活を送ってくれればと思います。

と言うことで、このところの最大の関心事は、息子の大学受験ですね。心落ち着かないと言うか、胃がキリキリ痛む状態がしばらく続きそうです。

さて、どんな人にも、新しい年は巡って来ます。新しい年がすべての人にとって、少しでも明るい年となりますように。

はなこ

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ラースと、その彼女(原題:LARS AND THE REAL GIRL、米)

70愛すべきラースの成長物語

母屋に暮らす兄夫婦は、ガレージを改装して作った離れにひとり暮らす弟ラースのことが気がかりでならない。30近くにもなって女性との浮いた噂ひとつなく、自宅と会社、或いは自宅と教会を往復するだけの毎日なのである。特に義姉のカリンは身重の体で、彼のことを本当の弟のように気遣うのだった。兄のガスはガスで、過去の負い目もあって、今ひとつ弟に本音をぶつけることが出来ない。

ラースはカリンが食事に誘っても気乗りしない様子で、しつこく食い下がると黙り込んでしまう。相手が誰であろうと一定の距離を置き、彼の心に踏み込もうとしようものなら、沈黙で拒んでしまうのだった。

そんな彼がある日、珍しく自分から兄夫婦の家を訪れた。遠い国からネットを通じて知り合った女性が彼を訪ねた来たのだが、自分の家に泊めることは憚られるので、兄夫婦の家に泊めて欲しいと言うのである。ついに弟にも春が巡って来たかと喜んだのも束の間、彼が連れて来たのは等身大のリアル・ドール!兄夫婦の驚きと戸惑いにはお構いなく、ラースは”ブラジル生まれの、ブラジル人とデンマーク人のハーフ”という彼女、ビアンカに楽しげに話しかけるのである。彼の中ではビアンカとの会話は成立しているらしいが、兄夫婦には彼の独り芝居にしか見えない。このところ弟は様子がおかしかったが、とうとう…大変だ!そうだ、バーマン医師に相談しよう!

50 米国中西部の小さな街で、街中を巻き込んでのラースとビアンカの恋物語。彼とビアンカを取り巻く、兄夫婦を始め、同僚、主治医、周囲の人々の眼差しが暖かい。ラースを愛すればこその、街の人々のビアンカへの処遇。ハリウッド映画にありがちな説明過多でないのも良い。さりげなく登場人物の台詞の端々に込められた断片情報から、徐々にラースの人となりが、明らかになるのだ。それにしても写真のビアンカ、遠目に見れば、何の違和感もない。本当に生きているみたいだ。このリアル・ドールなるもの。ネット通販でお好みの物が入手できるらしいが、ビアンカはアンジェリーナ・ジョリーに激似(笑)。ぽってりとした唇は”セクシー美女”の代名詞?!

ラースはけっして人嫌いなんかじゃない。彼の出生に纏わるトラウマと、その後の生い立ちから、他人とうまく関われないだけなんだと思う。人は幼い頃から段階を踏んで、自分以外の人間との関わり方を学んで行くものだろうに、そのプロセスが、諸事情から彼にはスッポリ抜け落ちていただけ。彼はビアンカとの対話を通して~結局、それは自分自身との対話だったのだろうか?~初めて、そのプロセスを踏むことができたのではないだろうか?その意味で、この作品は彼の内的な成長物語なんだと思う。劇中、兄に「いつ大人になったの?」と質問するラース。その質問は主治医バーマン医師の指導に従っただけのことかもしれないが、この作品の核心に触れた台詞のように思える。

リアル・ドールに恋する大人の男、という一見奇異な出来事で始まったこの物語は、ひとりの人間の成長物語として至極真っ当な結末?へと至り、見る者をおおいに納得させ、そしてその心に暖かな灯りをともす。ラースとビアンカの恋は果たしてどうなったのか?それは映画を見てのお楽しみ!すごく素敵な作品だ。お薦めです。(後日、出演者等について加筆の予定)

◆『ラースと、その彼女』公式サイト:http://lars-movie.com/

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グッド・シェパード(原題:THE GOOD SHEPHERD)

60 良き羊飼いの末路

 3時間近い長尺の作品だったが見応えがあったので時間の長さは気にならなかった。エドワード・ウィルソンという架空の人物を主人公に、映画の素材としては散々使い尽くされた感のあるCIA(大抵、悪者役)の草創期からキューバ危機に至るまでの経緯が緊迫感溢れる演出で描かれ、米国現代史の裏側を覗き見る面白さを感じたと同時に、組織に翻弄される人間の人生の苦さが胸を突いて印象的だった。

 米CIAは、第2次世界大戦時に諜報活動を行った米軍のOSS(Office of Strategic Services、戦略事務局)を前身として戦後発足された諜報機関だ。資料によれば、草創期の主たるメンバーはイェール大学に存在する秘密結社スカル&ボーンズ(Skull&Bones、頭蓋骨と骨、以下S&B)の会員から選抜されたエリート学生であったらしい。S&Bとは、米国の名家(と言ったら、やっぱり1620年にメイフラワー号に乗って米国に渡って来た初期の移民の子孫を指すのだろうか?)の出身者のみが入会を許され、将来は米国政財界のトップを目指すエリート集団のようである。ブッシュ大統領は祖父の代からこのS&Bのメンバーであり、大統領選でブッシュ大統領と戦った民主党のジョン・ケリー候補も同メンバーであったと言う(しかし「ブッシュ大統領もメンバー」となると、失礼ながら(..;)「能力」より「血筋」なのかなと思う。エリートをエリートたらしてめているのは、結局”身内”の助け合いなのだろうか?)

 結局人間は自由な新世界を求めても、そこで新たな階層社会を築くものなのか。S&Bメンバーの祖先であるピューリタン(清教徒)も、英国国教会(教義的にはカトリックに近い)の縛りから逃れるべく米国に渡って来たはずが、新天地で自分達を頂点とする階級社会を作り上げたのである。こういうところに、人間の逃れられない業のようなものを感じるなあ。

60_3

かつては詩を愛し、諳(ソラ)んじた情緒豊かな若者だったエドワードが、組織の中枢に身を置けば置くほど、人間としての心を失って行く。命令とあれば、新婚で身重の妻を置いて海外の戦地へ。生まれた我が子を数年もその手に抱くこともない。常に緊張を強いられる勤務状況下では、家族の孤独と不安を顧みる余裕すら持てない。

 主人公エドワードがCIAの過酷な任務に身を投じた原点には、父の不名誉な死があったのかもしれないが、その父の、我が子エドワードに託した真の思いに、彼はもっと早く気付くべきではなかったのか?彼のその時々の選択(軽率な行動とも言えるだろうか?それが愚かであるがゆえに人間的でもある)は、皮肉なまでに彼の人生の歯車を狂わせて行く。もう後戻りできないまでに、非情な組織のメンタリティに染まりきった彼は、自分が組織の人間である前に、夫として、父親として、そして人間として何をすることが最善なのかの判断さえつかなくなってしまう。

 (公式サイトでは「国民の」とあったが)「国家」の良き羊飼いたらんとして彼が人生で失ったものはあまりにも大きい。その人生は家族をも巻き込んだ自己犠牲の人生であり、私には到底理解し得ないものだが、キリスト教的価値観の文脈の下では肯定され得る生き方のひとつなのだろうか?

 ロバート・デ・ニーロ監督は当初、エドワード役にレオナルド・ディカプリオを想定していたようだが、レオのスケジュールの都合がつかず、マット・デイモンということになったらしい。レオならどんな風に演じたのだろう。個人的には知性派マットの抑制した演技は人物像に迫真のリアリティを与え、良かったと思う。彼のヨレヨレのコートの後ろ姿が、(”神”にも匹敵する権力を手中に収めたにも関わらず)悲愴な雰囲気を湛えた残像として、今も脳裏に焼き付いている。

 ◆『グッド・シェパード』公式サイト:http://www.goodshepherd.jp/

【追記:2008.12.19】監督陣はレオやブラピがお好き?

今朝、新作『地球が静止する日』のジャパン・プレミアの為来日したキアヌ・リーブスのインタビューを見たが、彼の代表作のひとつである『マトリックス』の主演も、ウォシャウスキー兄弟監督は、当初ブラッド・ピットレオナルド・ディカプリオを想定していたそうである。それを脚本に惚れ込んだキアヌが強力アピールで自分のものにしたそうだ。私はキアヌの平静の姿(大抵長髪で髭面)と役柄とのギャップから、彼の役を作り込むプロ魂を感じるのだが、その彼の仕事に対するストイックな姿勢が好きだし、今となってはマトリックスのネオ役は彼以外にイメージできない。それにしても、監督陣はレオやブラピが好きなんだなあ。

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渋谷で《明日の神話》を見よう!

20081210 とても一画面に収まりきらない!

クリスマス会の帰りに渋谷駅の連絡通路に展示されている巨大壁画、岡本太郎(1911-1996)作《明日の神話》(1968-69制作)を見て来た。岡本氏は大阪万博の《太陽の塔》の作者で、「芸術は爆発だ」の名言でも知られる現代美術家だ。この作品は《太陽の塔》と対を成す、岡本氏の代表作らしい。縦5.5m、横30mで、岡本作品では最大。

渋谷では11月17日に公開されたばかり(2006年夏、修復直後に一度汐留で公開された)。この壁画の前を、日に30万人以上が通過する。その設置環境から作品の劣化が懸念されるが、「傷んだら修復すればいい」と岡本氏の関係者はいたって大らか。コーティング等、徒に保全策を講じないことも、岡本氏の遺志に沿うものだと言う。

作品は今から約40年前に、メキシコの実業家の依頼を受けて岡本氏が制作。しかし、制作後間もなくして行方不明となり、遺族の必死の捜索で近年メキシコで発見された。ずさんな保管状況の為、当初は損傷が激しかったが、ベテラン修復家の手で見事に蘇ったのである。

さすがに目の前で見ると大迫力。大胆なフォルムと鮮烈な色遣い。作品からほとばしるエネルギーの力強さは、制作から40年近くを経た今も衰えることを知らない。『作品は原爆の炸裂する瞬間をモチーフとし、未来に対するメッセージを描いたものです。炸裂の瞬間は残酷な悲劇を内包しながら、その瞬間誇らかに「明日の神話」が生まれると信じた、岡本太郎の痛切なメッセージを伝えています。』(岡本太郎「明日の神話プロジェクト」公式サイトより)。中央に描かれた、原爆で身を焼き尽くされ、骨と化してもなお生命力漲る人間の姿に、「明日(=未来)」への希望を託したかのようにも見える。

恒久展示場所には、この渋谷以外にも原爆の被災地広島市や、大阪市が名乗りをあげたという。しかし、岡本太郎記念館に近く(青山在)、多くの人の目に触れる好立地であり、「渋谷を若者だけでなく、全世代が集う街に変えたい。その起爆剤に」という渋谷区住民の切なる願いを込めた熱心な誘致活動の結果、今の地に落ち着くことになったらしい。

渋谷に行くなら、是非、この《明日の神話》にも会いに行こう!
きっとパワーを貰えるよ!

壁画の右半分2

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今更ながら、グローバリゼーションの衝撃

無力な中間層として恐れていることを書きます。相次ぐ「派遣切り」に対して、怒りのデモ行進をしている人々の姿をブラウン管越しに見て、とても他人事とは思えません。

果たして、日本の基幹産業である自動車産業に復活はあるのだろうか?

このところの世界的不況、特に大きな市場である米国で自動車の売れ行きが激減し、日本の自動車産業も苦境に陥っている。在庫が増え、生産調整をしても対応できない為、期間従業員を大量解雇する事態にまで発展しているのは、連日の報道でも周知の通りだ。

因みに自動車1台作るのに約2~3万点の部品が必要なのだそうだ。それだけの数の部品を使うということは、それだけ日本のあらゆる産業への影響が大きいことを意味する。先日、ある報道番組では「風が吹けば桶屋が儲かる」式で、自動車が売れなくなれば、タイヤメーカー→ゴムメーカーと言うように、自動車産業の不況が様々な産業へ波及することをレポートしていた(【追記08.12.24】辛坊治朗氏によれば、自動車産業の年間設備投資額は1兆5000億円で日本の産業全体の20%、自動車の年間輸出額は18兆円で全体の22%を占めるらしい)。

一説によると、日産マーチ一台を作るのに必要な部品の価格を単純に合計すると、販売価格の3倍(300万円)になるらしい。これには組み立て費用は含まれていない。では、どういうカラクリで100万円台の低価格を実現しているのか?利幅の大きい高級車の利益も含め、販売車種全体の利益で差額を相殺しているのだろうか?(だとしたら、マーチはかなりお得感アリですね)

ところが、ここに衝撃的な事実がある。すでに新聞で報道されているので、ご存知の方も多いと思うが、「A.T.カーニーの試算によると、世界中から部品を集めればエアコン、エアバッグ付き自動車でも3000ドルで作れる」(日本経済新聞、2008年10月30日付朝刊1面)。3000ドル~日本円にしてたったの30万円である。

「日本で課税最低限以下の年収200万円」が中間層(現在は5000万人だが、今後7年で2~3億人に増えるらしい)と言うインドでは、せいぜい数十万円が自動車の適正価格なのだろう(実際、インドの自動車メーカー、タタ社は約20万円の低価格車を開発中)。記事にはさらに衝撃的なレポートが続く。この中間層の世帯の半数には使用人がおり、車を持つ世帯の1割にはお抱え運転手もいる。サラリーマン世帯の平均年収が600~700万円の日本では考えられない生活スタイルである。

日本の自動車産業も中国に次ぐ巨大市場と言うことで、積極的にインド市場への参入、工場建設を進めているが(←つまりインド向け商品は現地生産だから、インドにおける市場拡大が日本の工場の雇用拡大には繋がらない)、果たして従来の「豊かさの概念を覆す」インドと言う国で、日本のビジネス・モデルは通用するのだろうか?国内市場の縮小に伴い、今後益々依存度を高めて行くであろうグローバル市場での衝撃的な「低価格革命」に直面すれば、これまでのような利益の確保は難しいのではないだろうか?

今後日本の工場に、かつての活況が戻ることはあるのだろうか?(←あるとすれば先進諸国市場のガソリン車から、ハイブリッドもしくは電気自動車等の環境に配慮した商品への買い換え需要か?)あらゆる産業への波及効果が高いだけに、基幹産業である自動車産業の苦境は、そのまま日本経済全体の苦境へと繋がるのが恐ろしい。

インドの中間層が享受している生活レベルを一度も経験することなく、日本の中間層は日本経済の凋落と共に転落して行くのだろうか?もしかしたら今、私達日本人に「豊かさの概念」そのものを変えることが求められているのかもしれないし、自動車産業に代わる基幹産業を、日本産業界は考えるべき時に来ているのかもしれない。

【矛盾するようですが…】
中国、インドと言った巨大市場で、従来型のガソリン車がどんどん販売され増えていったら(←価格的にも当面はガソリン車主流ですよね)、環境負荷がとてつもなく高くなってしまうのでは?地球環境は大丈夫?

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ノーベル賞受賞に経済力は関係なし?!

今年は日本人のノーベル賞受賞者が一気に4人も出て(物理学賞:南部陽一郎氏(87歳)・益川敏英氏(68)・小林誠氏(64)、化学賞:下村脩氏(オサム,80))巷の話題をさらっている。内2人は50年近く前に米国へ頭脳流出してしまった科学者だ。

そのノーベル賞に関し、定期購読している日刊タブロイド紙『サンケイ・エクスプレス』で面白い記事を見つけた。「今、何が問題になっているのか」と言うレギュラー・コラムなのだが、10月10日付の記事では今回のノーベル賞受賞者と我が国の経済力との関係について言及している。歯止めのかからない日本の国力の低落傾向に、今後の優秀な人材輩出を悲観する論調が目立つからだろうか?

記事の冒頭では我が国の低落傾向を具体的な数字で列挙して見せている。

■世界経済フォーラム(WEF)が8日発表した「世界経済競争力ランキング」で、日本は07年から順位をひとつ下げ、9位。07年10位だったオランダが8位に入り、その後塵を拝することになった。

長く世界一だった政府開発援助(ODA)実績は、米国、英国に抜かれ、07年にはドイツ、フランスにも抜かれて5位に転落した(経済協力機構(OECD)調べ)。

国内では「生活が苦しい」と感じている世帯が6年連続で増え、07年は過去最高の57.2%だった(厚生労働省の国民生活基礎調査)。

今年8月の貿易収支は、3240億円の赤字となった(財務省の貿易統計速報)。年末年始が休みの1月を除いての単月赤字は1982年以来。米国の黒字減らし圧力でもどうにもならなかったものが、原油高騰と対米輸出の落ち込みであっさりクリアされてしまった。

■OECDの教育の調査では、加盟各国の2005年の国内総生産(GDP)に占める教育への公財政支出割合は、日本は3.4%で、比較可能な28カ国中最下位(先日の辛坊氏のテレビ解説によれば、高度経済成長期?に国家予算に占める割合は、社会保障費が約12%、教育費は約14%だったのに対し、近年は社会保障費が実に50%近く、教育費は約9%となっている。他国に例を見ない高齢化社会の進展で、社会保障費が国家予算の大半を占める現状は、「未来への投資」である教育予算を圧迫する結果となっている。高等教育への学生ひとり当たりの公費負担もトップのスウェーデン14,000$の半額に近い8,000$弱で、調査対象国の平均値にも満たない。グラフを見ると東欧のスロバキアより下だった。【追記】日本の大学進学率は50%強で、世界で33位だそうだ。因みに1位は92%の、あの教育立国フィンランド、2位韓国と続く)

それに対して、記事はこう続けた。「もっとも、ノーベル賞受賞が決まった4人は、日本経済の絶頂期より前に結果を出していた

■化学賞の下村脩氏は、オワンクラゲから緑色蛍光タンパク質(GFP)を取り出し、1961年、紫外線を当てると、このタンパク質が明るく輝くことを発見した。

■物理学賞の南部陽一郎氏は、1960年、粒子と反粒子の「対称性の破れ」につながる基本理論を数式化し、現在の素粒子理論の基礎を構築した。

■同じく物理学賞の小林氏益川氏は、1973年、「対称性の破れ」について、基本粒子のクォークが少なくとも6種類あるという理論で説明することに成功した。

特にコラム筆者は、留学生が希有だった50年も前に渡米した南部、下村両氏の苦難を想像し、その気概を称え、「優れた研究者の輩出ということで将来を心配するならば、国力うんぬんより、彼らのがんばりを見習いたい」と結んでいる。

「日本人万歳!」と言う大合唱の中で(そもそも人生の大半を米国で過ごし、永住権も取得している頭脳流出組のお二方に、日本人としての栄誉はどれほどおありなのだろうか?寧ろ一科学者としての充実感に浸っておられるのでは?日本のメディアの取材攻勢に、戸惑っておられるようにも見える。)、個人の気概の重要性に言及したのは面白いと思った。

奇しくも深夜の経済ニュース番組「ワールド・ビジネス・サテライト」では、渡辺トヨタ自動車社長が「いつまでも、どんなときでも、健全な危機意識を持つ」ことが、危機を乗り切る処方箋だと言い切っていた。ひとりひとりがそうした心持ちでいること、結局は何事も、個人の頑張りに係っているのかもしれない。凹んでなどいられない。

ただ「個人の気概」で気になるのは、豊かな時代に育った世代に、ノーベル賞世代が持っていたような”負けん気”や”粘り強さ”、”大志”と言った気概があるのか?と言う点である。経済的豊かさによって逆にハングリー精神が失われてしまったことが、世界の厳しい競争にさらされた時にマイナスになりはしないかと心配だ。それともハングリー精神に代わる何かを、新世代は獲得したのだろうか?

私個人の意見としては、傑出した才能の輩出は個人の気概に委ねるとして(天賦の才も”選ばれし者(gifted)”としての自覚が本人になければ花開かないのでは?)、天然資源の乏しい小さな島国が生き残る為には、国民ひとりひとりが貴重な人材であり、全体の底上げが必要だと考えている。その為には公教育にもっともっと予算を割くべきだ。公教育の充実こそが、日本の将来の浮沈を握っている。現状は政府があまりにも公教育を蔑ろにし過ぎていると思う(実際、子供を育てていて教育費の負担の大きさをヒシヒシと感じる)

【2か月後…】

折りしも12月8日現在、ノーベル賞授賞式出席の為、受賞者(南部氏は奥様の体調不調の為欠席)はスウェーデンへ渡航中。受賞者のひとりは「私にとって南部氏は憧れの人だった。全体の底上げももちろん大事だが、彼のようなスーパースターも必要」と訴えておられた。結局、スーパースターの発掘育成全体の底上げも共に国家の責任の下に力を入れるべきと言うことかな?そのどちらに関しても、現在の日本の教育政策では欠けているということなんだろう。国は受賞者の言葉に真摯に耳を傾けるべきだ。

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日本の職人の底力を見た!これが本当の国際協力なのかも

去る9月26日、夕方のニュースの延長で見ていた10チャンネルで、興味深い番組があった。題して『世界の子供がSOS!THE・仕事人バンク マチャアキJAPAN』。スリランカやタイの困っている子供達のもとに、日本のベテラン職人が赴いて、自らの技で助けの手を差し伸べると言う企画。スリランカ、タイ、それぞれ1時間のレポートだ。

■2年前にスマトラ沖地震による津波で甚大な被害を受けたスリランカ沿岸部。そこに母や幼い兄弟達と共に住む17歳の少年リファース君(奇しくもウチの息子と同い年)。彼は津波で一家の大黒柱である父を失い、以来学校を辞めて終日漁師として働き、家族の生活を支えている。彼が困っているのは、彼の家に冷蔵庫がない為に、せっかく釣り上げた魚がすぐに腐ってしまうこと。そこで、彼のもとに鹿児島県枕崎市のベテラン鰹節職人、大茂健二郎氏(73歳)が派遣される(魚も節加工すると2週間は保存がきくらしい)。

ファース君の将来の夢は船舶免許を取得して、鰹漁の漁師になること。その為には勉強が必要だ。魚の節加工技術を学べば、漁に出る時間を短縮して、浮いた時間を勉強時間に充てることができる。小舟で漁をする彼が現時点で釣れるのは小ぶりの魚ばかり。鰹は夢のまた夢だ。

日本から持参した2本の包丁を使って、華麗に魚を捌いてみせる大茂氏。限られた時間で、彼の60年間の職人生活で培った技術を、リファース君に伝授したい。ただやって見せるのではなく、二人で一緒に作ってみる。学ぶことは真似(まね)ぶこと。厳しくも温かい指導をする大茂氏。言葉は通じなくても、いつしか二人の心は通い合う。

リファース君の家族との触れ合いの時間。幼い弟はいまだ海が怖いと言う。ほどなくして大茂氏は、その幼い弟とリファース君が2人で、2年前の津波被災時に父親の遺体を海から引き揚げたことを知る。益々自らの技術をリファース君に伝えたい思いが募った。もうここまで来ると、父親が我が子を想う心境に近い。翌日、密かに鰹を市場で買い、鰹節の製造方法を伝授する大茂氏。真剣な眼差しで必死に学び取ろうとするリファース君。さて、いよいよ指導を終えて旅立つ日、大茂氏は日本から持参したあの2本の包丁を、これからひとりで節を作ることになるリファース君へのはなむけにプレゼントしたのだった。

スタジオに改めて大茂氏を招き、彼が帰国後の、スリランカの様子を伝えるビデオレターを映し出す。そこでは意外な展開が待っていた。リファース君が作った小魚の節は地元の漁師の間でも評判となり、それとの物々交換でリファース君は鰹を得ていると言う。午前中は漁に出る必要がなくなり、勉強に勤しんでいるらしい。さらにリファース君が作ったと言う鰹節が大茂氏の前に差し出される。その削り節を感激の面持ちで試食する大茂氏。文句なく合格点の出来。日本の匠の技術が、遠いスリランカの地に根付いたことを告げる瞬間だった。

■タイ北部の首都チェンマイから、さらに車で4時間の所にあるカレン族の村。そこに住む11歳の少女、ワーンちゃんの願いも切実である。村民わずか160人余りの小さな山間の村の子供達は、その日に家族が食べる分のお米の精米の為に、毎朝4時半に起きて、なんと2時間かけて臼に入れた玄米を棒で搗いて脱穀すると言う。幼い子供達にはかなりの重労働である。そこで日本から、水車大工の野瀬秀拓(57歳)氏が派遣された。川の流れを利用した水車の動力を使って、臼の中の玄米を搗くという作戦だ。

野瀬氏は早速村内を散策。すぐさま水車の設置に最適な川が見つかった。水車には十分に乾いた木材を使う必要がある。幸い最適な廃材もすぐに入手できた。村の男性有志数人も作業を手伝ってくれる。中でも副村長のインケーオ氏は手先が器用で頼りになる助手となった。

途中、道具のノミの柄が折れるアクシデントに見舞われるも、近くにある倒木の枝をすぐさま柄にして、何事もなかったように作業を続ける野瀬氏。その咄嗟の機転は、あらゆる場面で発揮された。

川に水車を設置する日、年に一度あるかないかの大雨に見舞われ、土台の脆さを知ると、急遽石を積み上げ土台を強化。水流がそのままでは弱いと知れば、水車の回転速度を上げる為に、より上流の川の水を長さ8mの雨樋で渡し、川面より高い所から水車へと流し込む。とにかくどんな事態に遭遇しようとも、長年の経験知を駆使して、その場にある物を使って難なく切り抜けてしまうのだ。その職人の知恵には舌を巻く。まるでアクシデントを楽しんでいるかのようにも見えて、痛快ですらある。

釘を一切使わない水車の工法も、匠の知恵の集積である。例えば六分割できる水車の本体は、壊れた部分だけを交換すれば良い。木の性質を知り尽くし、利用し尽くしたその工法は、大学で木工を囓った私にとっては感嘆の極みである。さらに野瀬氏は、子供達の遊び道具にと、空いた時間を利用して竹馬も作ってしまう。何をするにも、楽しくてしょうがない、と言う感じなのだ。イマドキ、こういう人って珍しくないかい?

さて、水車稼働の日は村人総出で水車、及び水車小屋をセットアップ。子供達も張り切って運搬作業を手伝った。トドメは、夜間に精米をする人の為、照明用電源に簡易型水力発電装置まで設置してしまう野瀬氏の心配り。もうこれには感動のあまり言葉がない。

いよいよ待ちに待った水車の稼働である。川の水が雨樋を伝って水車に落ち、足下の川の流れも相俟って、水車が勢いよく回転し、その動力が棒を伝って水車小屋の臼の玄米を搗く。臼の玄米が搗かれた直後の、少女ワーンちゃんの喜びの表情が忘れられない。

スタジオではその後の村の様子を伝えるビデオレターと共に、ワーンちゃんからの手紙が紹介された。それには村の人々全員が元気なこと、朝の重労働から解放され、ぐっすり眠れるようになったこと、勉強にも頑張っていること、などが、野瀬さんへの感謝の言葉と共に綴られていた。やはり感激の面持ちの野瀬氏。「村の人々のお役に立てたら嬉しい」と彼の口をついて出た言葉はあくまでも控え目だった。ひとつのことを長年に渡って地道に続けて来た人の、なんと謙虚な言葉だろう。

どんな美辞麗句よりも重みがある。必要としている所に、必要な手助けを。これが本来の国際協力の在り方だろう。大茂氏の鰹節製造の技術は確実にリファース君に引き継がれたであろうし、二人の間には言葉を超えた深い信頼関係が見て取れた。一方、野瀬氏の名前は、水車小屋の入り口に、村人によって誇らしげに「精米所 野瀬」と現地の言葉で綴られ、掲げられていた。竹馬を見事に乗りこなす少年の姿もあった。テレビの企画だが、多少の演出上の脚色を考慮に入れても、日本が誇るべき二人の職人が、海外で立派な仕事をやり遂げた一部始終が十分に伝わるレポートだった。素直に感動した。思わず出張先のホテルから電話をかけて来た夫に、その感動を熱く語ってしまったよ(笑)。

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アメコミ三昧(『アイアンマン』他)

天才トニーー・スターク、パワード・スーツ開発中
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何だかんだ言って、アメコミ(Marvel ComicsやDC Comics)の映画化作品は結構見ている。今年だけでも『インクレディブル・ハルク』(超人ハルク)、『ダークナイト』(バットマン)、『アイアンマン』(アイアンマン)を見た。

過去には『スパイダーマン』『X-メン』『デアデビル』『ファンタスティック・フォー』『ゴーストライダー』『ブレイド』『トランスフォーマー』(以上Marvel Comics)、『スーパーマン』『スーパーガール』『キャットウーマン』(以上DC Comics)など。ストーリーは荒唐無稽だし、パワー礼賛(=悪は力でねじ伏せる)色が濃いけれど、良くも悪くも米国を体現しているアメコミ作品群。米国と言う国に対して愛憎相半ばの者にとっては、アメコミやその映画化作品は要チェック項目なのだ(笑)。

◆『インクレディブル・ハルク』は、前作の『ハルク』に比べれば、主演のハルク役に演技派エドワード・ノートン、その相手役に魅力的なリヴ・タイラーを迎え、人間ドラマの部分はなかなか見応えがあった。惜しむらくは、超人ハルクに変身後の格闘シーンで、CG表現にこれと言って目を引くものがない上に、冗長な印象が拭えなかったこと。途中で見飽きてしまった。

エドワード・ノートンがアメコミ映画主演とは意外…
45冒頭のブラジルの貧民街の描写は、4年前に公開されたデンゼル・ワシントン主演の『マイ・ボディガード(Man on Fire)』の舞台のひとつとなったメキシコの貧民街そのままに、建築基準法など存在しない、丘の斜面にへばりつくようにして縦横無尽に増殖した粗末な住宅群だったのが印象的だった(追っ手から逃れるべく、ハルクはその複雑に入り組んだ街路を疾走する。入り組んだ住宅街を疾走と言ったら、『ボーン・アルティメイタム』もそうだね)。映画の本筋とは関係ないが、なぜか記憶に残る映像である。

◆クリスチャン・ベールをブルース・ウエイン&バットマン役に据えた、クリストファー・ノーラン監督第2作目の『ダークナイト』は、前評判通りの完成度の高さと面白さで出色だった。

特に善と悪のせめぎ合い(バットマンVSジョーカー、また善人然としたデント検事の内的葛藤)とその均衡の危うさ(法治国家の下ではバットマンもまた裁かれるべき存在。あのエシュロンを想起させる盗聴システム=禁断の果実にまで手を出す下りが象徴的)、そして善悪が合わせ鏡のように存在するジレンマが、最後まで緊迫感が途切れることなく描かれ、見応えがあった。

鬼気迫る演技だったヒース・レジャー 50_4

さる評論家に「ジョーカー役を演じたヒース・レジャーは、過去にジョーカーを演じた怪優ジャック・ニコルソンを凌駕するほどの迫真と狂気の演技で、自らの命を縮めてしまったのでは?」とまで言わしめたほどのヒースの熱演。それは、現実世界に存在する確信犯的な、罪を犯すことそのものを犯行の目的とする、常人には理解不能な犯罪者を想起させ、言い知れぬ恐怖を誘った。バットマン・シリーズは敵役に大物俳優を起用するのがその特徴のひとつだが、本作の場合、ハリウッドの次代を担ったであろう気鋭の若手が、その命を燃やし尽くしたとも言える演技で、完全に主役を喰っていた。この後に演じる敵役は常にヒースを意識せざるを得ず、さぞかし演じづらいだろう。

◆『アイアンマン』は期待以上の出来だった。予告編より本編の方が断然面白い。主演のロバート・ダウニー・Jrが天才兵器開発者を演じるのだが、あり得ない状況下(笑)でのパワードスーツ開発過程の描写など、リアリティという点ではツッコミどころ満載ながら、これが結構面白いのである。試行錯誤を繰り返す中で徐々に完成に近づく、もの作りのワクワク感を追体験できるという感じだ。
      
Tg40_2 キャスティングも魅力的。有能で、公私に渡って主人公の支えとなるペッパー・ポッツ役のグウィネス・パルトロウ、同じく全幅の信頼を寄せる友人役のテレンス・ハワード、そして、何やら最初からいわくありげな共同経営者役のジェフ・ブリッジス(最初風貌のあまりの変化に誰だかわからなかった)と、役者が揃っている。それにしてもグゥイネス、昔より今の方が、ずっとチャーミング!また、前半で主人公と行動を共にするイェンセン役のショーン・トーブの存在も忘れ難い。イランをルーツに持つ彼は、様々な映画で中東人を演じているが、過去に出演した『クラッシュ』『マリア』『君のためなら千回でも』のいずれの作品でも、鮮烈な印象を残している。

本作でも、善と悪の相互依存性(共依存?)が皮肉だ。善があっての悪。最強の兵器は最悪の脅威となり得る。アイアンマンだって、悪の手に渡れば脅威となる。その危うさが、現実世界にもそのまま当てはまりそうで怖い。40_3
                                          

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しあわせのかおり~幸福的馨香~

Photo 見終わった後、思わず中華料理を食べに行った…
いつにも増して、おいしかった(笑)

今年も例年通り、見ている本数としては圧倒的に洋画が多いはずなのに、なぜか心に残る、ここに感想を書かずにはおれない作品は邦画が割合に多い。この作品も、そんな1本。

舞台は金沢。しかし、私の知る金沢ではない。観光客が見ることのない、すっぴんの金沢。地元の人々の生活が息づく、ジモッティな金沢。

デパート営業部勤務の貴子は、デパ地下の新たな目玉にと、地元で人気の中華料理店「小上海飯店」の出店誘致を任される。しかし老練の店主、王はけんもほろろに、その申し出を断った。それでも毎日ように王の店に出向き、日替わり定食を食べるうちに、貴子はいつしか仕事を忘れて、その味に夢中になる。えも言われぬおいしさ~心がホッとするような”優しい味”なのだ。

物語が進むうちに、徐々に貴子と店主、王の人となりが明らかになる。それぞれに、家族にまつわる心温まる思い出と傷心の過去があった。

一言で言うと、地味な作品だ。特にドラマチックな展開があるわけでもない。寧ろ容易に読める筋書きだ。そう、途中までは。

ある出来事をきっかけに、貴子は王の押しかけ弟子となる。それほどに、貴子は王の料理に魅せられた。この作品、「グルメ映画」とも言うべき様相を呈している。次から次へと喉が鳴るような料理が、冒頭から登場する。地元の新鮮な食材を使った、目にも楽しい中華料理。料理単独のクローズアップシーンも多いので、<b>料理はこの作品のもうひとつの主役</b>なんだろう。

王役の藤竜也と貴子役の中谷美紀は、この映画の出演に向けて中華料理店で特訓したと言う腕前を披露する。う~ん、凄い!作品を見た限りでは、王の頑固一徹な料理人気質に貫禄を感じ、貴子がその弟子として徐々に料理の腕を上げて行くさまにはワクワクした。掛け値なしに、二人の俳優は料理人になりきっていた。

俳優は役柄を通して、数多くの人生を経験する。それまでは一切素養がなくても、時には音楽家として楽器を弾きこなし、教師として教壇に立ち、料理人として見た目にもおいしそうな料理を作り上げる。これこそ俳優たる才能だろう。今回も、その才能に快哉を叫びたくなった。

劇中、一番印象に残った台詞は、
「一生懸命生きようとしているあの子に、あなたは何を言うんですか?」
と言う王の叫び。普段は言葉少なで木訥な彼の、内に秘めた情の濃さと熱さを感じた。これは予告編でも耳にすることができる。やっぱり、この作品の見せ場のひとつかな。

見せ場はクライマックスにもある。それは、王や貴子を取り巻く人々の、優しい気遣いが導く奇蹟のようなもの。思わず胸が熱くなった(特に八千草薫田中圭が演じる、「??」と「農家の3代目」は常に二人を見守る存在。物語の”その後”が気になるなあ…)。

Photo_2 この作品には悪人は出て来ない。正確に言うと直接的に人間の悪意は描かれない。それが物語の抑揚を削ぐことにもなり、その結果、全体的に平板で、地味な印象の作品になってしまったのかもしれない。しかし、
「地味で何が悪い」
と反論したくなるような滋味深~い作品なのだ。

関東でも上映館は銀座のシネスイッチ銀座と川崎のチネチッタのみ。何という少なさだろう(もしや中国の食を巡る様々な問題が、暗い影を落としているのか?)。これでは多くの人の目に心に、この作品が届かない。次善の策として、DVD化された暁には、是非ご覧あれ!

【ほぉ~と思ったこと】

中国の紹興では、地酒である紹興酒を、娘が生まれた年に瓶に入れ、土中に埋めて醸成させた後、娘が結婚する時に、その紹興酒で祝杯を挙げる慣習があるそうだ。これと似たような慣習は沖縄にもある。沖縄では娘が生まれた時に泡盛を瓶に入れて保存し、娘の祝い事で飲む習慣があるそうだ~と言う話を以前テレビで知った。さすがに琉球王国の時代、中国との交易が盛んだっただけあって、中国の慣習が伝来していたんだね。

【山定食 海定食】

日替わり定食はこの2種類。と言っても、それぞれ日替わりで、多彩な「山の幸」「海の幸」がメインに登場するのだ。中でも卵とトマトを炒めただけの「卵トマト炒め」は、素材も調理法もシンプルなだけに、料理人の腕が問われるのだろうか?

【大人の純愛】

「あなたがいたから私も頑張れた」って、もしかして愛の告白なのでは?この控え目さ加減が素敵かも。

◆「しあわせのかおり」公式サイト:http://www.shiawase-kaoru.jp/

【主演ふたりのインタビュー記事がありました!】

◆藤竜也(産経ニュース・インタビュー):http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/081018/tnr0810180759000-n1.htm</a>
中谷美紀(シネマぴあインタビュー):http://www.pia.co.jp/cinema/interview/081016_shiawase/shiawase_in.html

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ブーリン家の姉妹(The Other Boleyn Girl、英米合作)

アンの挑むような眼差しが印象的
60アン・ブーリンとヘンリー8世、その血筋が後にイングランドを発展させた

時代は16世紀、イングランド王ヘンリー8世を巡る、アン・ブーリンとその妹メアリ(史実は姉妹の生年が不詳なので、実際どちらが年長なのかも不詳らしい)の愛憎の物語。

王族間では政略結婚が当たり前の時代、新興貴族のトーマス・ブーリン卿は、ヘンリー8世が王妃キャサリンとの間に世継ぎの男児が生まれないことに目を付け、長女アンを王の愛人に仕立て上げることで、自らを取り立てて貰おうと義弟のノーフォーク公爵と画策する。

多少の後ろめたさを感じながらも、娘を自らの出世の道具として扱う父親。しかしそうした父親の思惑とは別に、アンは自ら王妃の座を貪欲に求め、メアリは思いがけない王の寵愛を受け入れる。王を巡る姉妹の愛憎と言っても、見た限りでは権勢欲にかられたアンが一方的に、王の寵愛を先に受けたメアリに嫉妬し、憎悪している。ヒステリックなまでに。それに対してメアリーは終始一貫して、最初に感じたイメージそのままに、優しく、控え目で、冷静だ。

史実ではその容姿の違いにも言及していて、アンが「黒髪、色黒、小柄、やせ形」なのに対し、メアリーは「金髪、色白、豊満」だったとされる。女性的魅力に長けていたのは、どうやらメアリーの方だったようだ。映画の制作者は二人の性格的な違いを際だたせる為に衣装のデザインや色合いにも心を砕いたらしい。個人的には、姉妹を演じた女優ナタリー・ポートマンスカーレット・ヨハンソンの”眉の形”に注目した。”アンの勝ち気さ”を示すかのようなナタリーの男勝りな一文字眉と、”メアリの母性的な優しさ”を表すかのようなスカーレットの優美な弧を描いた眉。人相学的にも、それぞれの性格に適った形と言えるようだ。

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H60 生涯6人の妻を娶ったとされるヘンリー8世。映画でヘンリー8世役を演じたエリック・バナは中肉だったが、実際のヘンリー8世はハンス・ホルバインが描いた肖像画で見る限り、堂々とし体躯の持ち主だったようだ。以前、ヘンリー8世ゆかりの宮殿ハンプトン・コートに行った時に見かけたヘンリー8世の肖像画もこのホルバイン作だったのかな?

世継ぎに男子を切望したことは無意味だったのか?

映画では、王をじらすだけじらす作戦でその執心をものにし、キャサリン王妃や妹のメアリを王宮から追い出してまで「王妃の座」を獲得したアンだったが、待望の第一子は女の子。聡明さを武器に、強気で野望に向かって邁進して来たアンの運命が暗転する瞬間だ。史実が伝える通り、その後断頭台の露と消えたアン。一方、映画では移り気で優柔不断な男として描かれたヘンリー8世は、史実では、ラテン語、スペイン語、フランス語に通じ、舞踏、馬上槍試合、音楽、著述とその才覚は多岐に渡り、イングランド王室史上最高のインテリとされている。その二人の間に生まれた赤毛の女児は後にエリザベス1世として、イングランドを未曾有の繁栄へと導くのである。

映画では母亡き後、叔母メアリに引き取られたエリザベスがイングランド女王に就く経緯については詳しく言及していない。これが調べてみると、映画1本作れそうなくらい、これまた波乱に富んだ展開だ。イングランドに限らず、政略結婚を繰り返したヨーロッパの王族は姻戚関係が複雑で、そのことが歴史を複雑なものにしている。イングランド王がローマ・カトリックから破門され、英国国教会を設立した経緯も、映画で語られている以上に複雑な背景を有している。まったく…(-_-)。

二人の競演は本作の最大の魅力 50

左の写真のように、映像表現も、特に室内での光の使い方が、まるでバロック絵画を思わせる陰影表現で素晴らしい。

運命が暗転してからの気の毒なまでのアンの脆さと、メアリが見せた芯の強さの対比は見事だ。この若さで、単に容姿の美しさだけでなく、見事な演技力で観客を魅了するナタリーとスカーレットの競演を見られただけでも、この映画を見る価値はあったと思う。

◆映画『ブーリン家の姉妹』公式サイト:http://www.boleyn.jp/ 

【追記】

史実では、エリザベスは叔母のメアリではなく、王の最後の妻、キャサリン・パーに、異母弟エドワードと共に育てられたとされる。この継母キャサリンは女王・王妃として初めて本を著したり、王不在時には王の名代を務めたりと、教養と知性に溢れた女性で、エリザベスも慕っていた、とある。このキャサリンのキャラクターが、映画のメアリ像に投影されているような印象を覚える。

もちろん映画の内容を鵜呑みにするわけにはいかないが、虚実交えた物語の中で、史実がさまざまな形で、映画の登場人物に投影されているのだなと感じる。歴史映画は映画としてその醍醐味を楽しんで、後で自分なりに史実を勉強すれば良いのかもしれない。これこそ、1粒で2度おいしい?!

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理念なき政治家が国政を担う国家の民の不幸

「無差別殺人」の多発、「麻薬汚染」の広がり、「万引き、窃盗、強盗、親族殺人、危険運転致死傷(特にひき逃げ!)」の増加、「高級官僚、公務員の不正及び職務怠慢」の発覚。これらの現象は何を意味するのか?日本人の心が壊れかけているのか?どう見ても、これらの事件報道は、人々の心を暗澹とさせるばかりだ。

それに拍車をかけるように、未曾有の不況が日本全体を覆い尽くそうとしている。連日、「大手企業の業績大幅下方修正」「企業倒産」「就職予定者の内定取り消し」「派遣労働者の首切り」と言った暗いニュースが報道される。

日本を取り巻く”負”の状況が、人々を「絶望感」へと駆り立てる。マスコミもネガティブ・キャンペーンばかり張らないで、もう少し明るい話題を提供したらどうだ?とひと言文句も言いたくもなる。と言っても、かつての、悪化する一方の戦況を正しく伝えず、いたずらに国民を侵略戦争へと追い立てた情報統制のような事態は真っ平ゴメンだ。

今、日本で何が一番問題かと言えば、政治の不毛だと思う。国の政(まつりごと)を司る政治家に理念がない。日本と言う国をどのような国家にしたいのかの青写真を描く政治家がいない。日本が向かうべき方向性を明確に示してくれる政治家が、ひとりとしていない。日本の国家としての弱点を着実に補強しつつ、一方で長所を伸ばし、世界へと堂々とアピールできる政治家がいない。

世襲政治家の多く(←全員とは言っていない)は「政治家」と言う「職業」にうま味があるから世襲するのであって、これが「労多くて益少なし」であれば誰も好きこのんで世襲などするまい。「何がなんでも先代の理念を引き継ぎたい」のであれば、先代の地盤を安易に引き継がずに、違う選挙区から立候補すれば良い。「国家の為に、国民の為に命を賭して働けるか?」~世襲政治家の場合、それを自身の心に問うてから選挙に臨むくらいの気概を持つのが最低条件である。何より無名の政治家より知名度の点でアドバンデージがあり、ハードルを高くしなければ腐敗の誘惑が忍び寄るのが世襲の弱点であろうから。

将来を展望できなければ、国民は安心して生活を営むことはできない。不安の中で日々の暮らしに汲々とすれば、心は萎縮し、脳も働かなくなり、個々が本来持っているはずの能力さえ発揮できなくなるだろう。そのことによる国家の生産性の損失は計り知れない。

現状では若者はまともな就職ができず、十分な収入もなければ結婚もできず、たとえ結婚できたとしても子供を産み育てることをためらうだろう。子供が生まれたら生まれたで、教育費が嵩み、少子化を止めるだけの子供の数は到底望めない。豊かな時代に育った世代に「貧乏子沢山」の生活を強いることなどできまい。

経済の活況に消費は欠かせないが、将来への不安を抱えていては、消費者心理としては「消費」より「貯蓄」である。富裕層は資産防衛の為に資産の海外移転さえ考えていて、日本にお金を落としたりしない(不動産ほど水ものはないし、懸念される大震災でも起きれば、日本の不動産価値や貨幣価値、株価はクズ同然になる)。

大量生産、大量消費を前提とした経済の収益構造で、あらゆる点で国民の自己責任の部分が大きく(裁量権が大きく、自由度も高い)、階層間移動が盛ん(大成功のチャンスがある一方で、転落のリスクも大きい)な米国型社会を目指すのか、税負担の加重を覚悟の上で社会保障を手厚くした(医療費、教育費の公費負担を充実させる)北欧型社会を目指すのか、米・北欧の長所・短所をうまく調整したタイプの社会(←ってどんな社会?)を目指すのか、或いは全く新しい発想で日本独自の社会制度を創り上げるのか?

今いる政治家で、堂々と自身の政治的理念を示してくれる政治家はいないのか?いたら、その人の話に耳を傾けたい。

裁判員制度より先に、首相公選制を実現して欲しかった…(て言ったら、「あなたは議員内閣制の意味が分かっていない」と言われるのだろうか?)

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