映画(2007年)

『リトル・ミス・サンシャイン』(米、2006)

走り乗れっ、ポンコツ・ワゴンへ!
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「市場原理主義」とか、「成果主義」とか、「勝ち組」とか、「負け組」とか、イイ加減疲れませんか?今の世の中!

そんなに常に競争にさらされて、精神的に緊張を強いられ、たとえ努力して、運にも恵まれ、勝ち馬」に乗れたとしても、それが未来永劫保障されるわけでもなく、自分の努力の甲斐もなく転落することもあるわけで…長らく農耕文化で、互いに助け合うことで生きて延びて来た大多数の日本人には、今はかなり辛い世の中になっていると思う(こう書くと、自ら「負け組」宣言しているようなものだね・苦笑)

自分が生き抜くことに精一杯だから、人々の心から他人を思いやる余裕さえ失われつつある。思えば戦後最も物質的には豊かであるはずなのに、すっかりギスギスした世の中になってしまったものだ。

単に「弱肉強食」「自然淘汰」なら、そこいらの動物と何ら変わりないじゃないないか?否、寧ろ今の人間の強者は、自然界に生きる動物達より弱者には情け容赦ない。某日「NHKスペシャル」では厳しい自然環境の中で、動物達が懸命に助け合う姿が映し出されていた。南極ではブリザード吹きすさぶ零下60度の中、100匹以上のオスの皇帝ペンギンがハドルと呼ばれる体勢でひと塊になって体を寄せ合い、孵化前の卵をお腹で温めていた。北極では麝香牛の群れが、その幼子を円陣で囲って狼から守っていた。彼らは皆、自分達の種を絶やすまいと必死の行動をとっている。

それからしたら、今の日本人は種を絶やさんばかりに、大人が子供に対して虐待をしたり、暴行を働いたり、殺戮したり、助かる命をないがしろにして死に至らしめたりと、その行動からは種の保存本能さえ失われつつあるように見える。

しばしば言われていることだが、「映画は時代を映す鏡」。そして「社会の実相を描き出すキャンバス」でもある。この映画が作られた背景には、「市場原理主義」「成果主義」「勝ち組」「負け組」の本家本元の米国でも、その熾烈な競争社会に異を唱える人々の声が大きくなったことがあるのだろうか?そもそも一握りの「勝ち組」に対し、大多数の「負け組」である。小さな声も数が集まれば大きな声になるはず。

本作は、その米社会で「負け組」に位置する家族の物語。

Photo_3 ビューティ・コンテスト優勝を夢見る7歳の少女オリーブ。ちょっと太めな体型で、大きな眼鏡がちょっとダサイ。しかし心優しく愛らしい彼女の、「リトル・ミス・サンシャイン」コンテストへの”棚からぼた餅”的本選出場が決まったのを機に、崩壊寸前の「負け組」家族の再生物語が展開して行くのだ。

人生で「勝ち組」になることに大きな価値を置くオリーブの父親。自らが編み出した「成功のステップ」論の出版化で一攫千金、社会的名声の獲得を目論んでいる。常に彼の口をついて出るのは「勝たなきゃダメなんだ」。しかし自ら、その成果を体現していなければ、立派な理論も説得力を持たない。

他に、老人ホームを追い出されてしまった好色家の祖父。学者としては一流ながら、抜き差しならぬ事情で、一家と同居することになった叔父(母親の兄)。願掛け?に、自室内で体を鍛えながら「無言の行」を何ヶ月も続けている15歳の兄。そして、こうした個性的な面々を愛情と忍耐でかろうじて束ねている母親、という面々。

Photo_4 「負け組」とは言え、写真の室内、そんなにみすぼらしくもない。しかし、やっぱり気になったのは家族の夕食の場面。う~ん、これは侘びしいぞ。テイクアウトのフライドチキンと野菜サラダにスプライトなんて。「食」に貧しさが顕われている(その昔読んだ桐島洋子の『淋しいアメリカ人』中の、マクドナルド創業者宅の冷蔵庫についての言及がふいに思い出された。その中は、マクドナルドの店舗で提供される商品の栄養バランスとは対極の、豊かな食材に溢れていたのである。「食」は本当の意味での「豊かさ」の指標なのかもしれない)

一家はカリフォルニアのビーチサイドにあるホテルのコンテスト会場を目指して、アリゾナの自宅からポンコツ車を走らせるのだが、道中でさまざまな出来事に見舞われる。その出来事のひとつひとつに涙と笑いとペーソスがあって、最後まで目が離せない。 

いわゆるロードムービーなのだが、愛情の深さは人のどのような振る舞いに顕れるのか、人間にとって何が本当の幸せなのか、旅路でのハチャメチャな家族の一挙手一投足に、時には笑い声をあげながら、教えられたような気がした。数年前に起きた「ジョンベネちゃん殺害事件」を思い起こさせる過熱ぎみとも言える美少女コンテストへの皮肉もたっぷり効いて、「勝ち組」「負け組」という括りのバカバカしさ、虚しさが感じられた一家なりの幸福な結末?が後味爽やかだった。

◆映画『リトル・ミス・サンシャイン』データ:http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=326063

◆リトル・ミス・サンシャイン公式サイト:http://movies.foxjapan.com/lms/

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ダーウィンの悪夢(2004年、仏、オーストリア、ベルギー合作)

Photo 以前、沖縄の某観光施設で「ハブとマングース」の決闘ショーを見たことがある(映画『007 カジノ・ロワイヤル』でも確か「コブラとマングース」の決闘シーンがあった) 。マングースは外来種で元々沖縄には生息していなかったのだとか。ハブ駆除に役立てようと外から持ってきて、ハブの生息する山野に放ったのだろうか?

今しがたNHKのラジオニュースで、沖縄本島北部にのみ生息する特別天然記念物ヤンバルクイナが絶滅の危機にあると伝えていた。なんと、その原因はマングースだという。自然界は弱肉強食。マングースも毒を持ったハブを襲わずに、動きがトロいヤンバルクイナを狙うということなのだろう。人間が余計なことをすると、ほぼ間違いなく生態系を壊す、悪しき事例のひとつと言えるのかもしれない。

日経夕刊の《シネマ万華鏡》でも『ダーウィンの悪夢』というドキュメンタリー映画のレビューで同様のことが書かれていた。かつて「ダーウィンの箱庭」と呼ばれた自然豊かなアフリカ・ヴィクトリア湖に、半世紀前に人間が安易に外来種の肉食魚を放ったが為に、湖の生態系を破壊してしまったというのだ。

さらに皮肉なことに、この魚の白身をヨーロッパや日本が大量に購入する為、湖畔には一大加工産業が生み出されたと言う。映画は現地でさまざまな人々を対象にインタビューを重ね、「豊かな資源に恵まれながら貧困にあえぐ現地の人々の姿」を描き出しているらしい。記事の見出しには「グローバル化の痛み」とあり、「市場経済の拡大によるグローバリゼーションが、貧富の差を世界に拡大した」「その象徴がアフリカである」と述べている。

映画『ナイロビの蜂』『ホテル・ルワンダ』のことがにわかに思い出された。「湖に外来種を放ち生態系を破壊」と言ったら、琵琶湖のブラックバス問題も思い出される。

この種の、世の不正・不条理(特に「南北問題」)を告発するドキュメンタリー映像を目にするたびに、極東アジアの小国ながら、先進国かつ経済大国として位置づけられる”日本”に生まれ育った自分が、”搾取する側”にいることを、否応なく意識せざるを得ない。見終わった後に、どこか後ろめたい罪悪感のようなものが、心の澱となって残る重苦しさはどうしても否めない。

本作でも、同様の後味の悪さは残る。かつて短い期間ではあったが、国際協力事業の末端にいて、世界の50カ国余りの開発途上国の人々と関わりを持ち、さらにそこから離れた後も、彼らのこと、彼らの国のことを忘れまじと、国際援助団体フォスター・プランに参加し、10年間、アフリカのケニアとアジアのスリランカの子供のフォスター・ペアレントとして幾ばくかの援助をして来たことが、単なる自己満足や欺瞞や偽善に思えて、胸が苦しくなった。そうやって自分は「”いい人”ぶっているだけなのかもしれない」「罪悪感から逃れたいだけなのかもしれない」国家単位で考えても、同じことなのではないだろうか?

【お断り】

誤解を招く恐れがあるのでここで一言書き添えますが、ここでの発言はフォスタープランの活動を否定するものではけっしてありません。本作を見て、その圧倒的な悲惨さの前に衝撃を受けて、自分の行為にどれだけの意味があったのか、自問せざるを得なかったのです。もちろん何もしないより、微力でも何かをした方が良いのです。同じ人間として一番の罪深いのは、この地球上のどこかで、どれだけ悲惨なことが起きているのか知らないこと、知ろうと努力しないことだと思います。無関心は罪です。恵まれた境遇にある先進国の人間は、「誰を踏み台にしてその豊かさを享受しているのか」を知るべきなのだと思います。

最近巷間を賑わせている洋菓子メーカー「不二家」の問題。一部工場における原材料の消費期限を無視しての使用、製造商品のズサンな管理体制など、その呆れた実態が次から次へと明るみに出ている。発端の消費期限切れ原材料使用問題は、あくまでも問題の端緒でしかなく、問われているのは、消費者不在の金儲け主義という「不二家」の企業体質そのものなのだろう。社員が外部へ内部情報をリークせざるを得ないほどの病巣が会社を蝕んでいたということなのだろうか?しかし、こうした「食の安全」という先進国では一大事な事柄が、アフリカの各地で起きている、より醜悪で悲惨な状況の前では、色褪せて見えてしまう。右往左往する様は滑稽ですらある。

本作で、EUや日本向けに輸出された白身魚の残骸を干す作業をしている痩せこけた女性の足下をよく見てみたらいい。無数のウジ虫がウジャウジャと、その指の間を這っている。そして加工後の(ウジの湧いた)白身魚の残骸は捨てられるのではなく、アフリカの貧しい人々の胃袋に納まるのだ。

人は自分の身に思いがけず災難や不幸が降りかかった時、自分が”世界一不幸な人間”だと思いがちだ。”自分だけが不幸”で、周りの人間の幸福そうな姿がうらめしく思えたりするものかもしれない。しかし、実際には”不幸”は巷に幾らでも溢れかえっている。悲惨な状況は、世界を見渡せば私達の想像を絶するものが幾らでも存在する。そこには涙も枯れ果て悲しむことすらできない、ましてや明るい未来を夢見ることなど叶わない、無数の人々がいる。そして負の連鎖はさまざまな形で世界に蔓延している。

本作は2005年に山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映され、その際には映画祭側が用意した字幕での上映だったそうだが、配給会社は一般公開にあたって改めて字幕を作り直したらしい。それは本作で言及した問題が遠いアフリカの出来事ではなく、日本人とも深い関わりがあることを実感できるようにとの配慮からだと言う。果たしてどれだけの人々が、映画館に足を運び、お金を払って、この映画を見てくれるのだろうか?作り手や映画に登場した人々の真摯な思いは、できるだけ多くの日本人に届いて欲しいのだが…

【世界の過酷な現実を見せてくれる最近の映画たち】

『ホテル・ルワンダ』(ドン・チードル主演)
『すべては愛のために(Beyond Borders)』(A・ジョリー主演)
『ザ・インタープリター』(ニコール・キッドマン主演)
『イノセント・ボイス~12歳の戦場』(カルロス・バディジャ他)
『ロード・オブ・ウォー』(ニコラス・ケイジ主演)
『ナイロビの蜂』(レイフ・ファインズ主演)
『シティ・オブ・ゴッド』

(時制は2007年1月当時)

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グッド・シェパード(原題:THE GOOD SHEPHERD)

60 良き羊飼いの末路

 3時間近い長尺の作品だったが見応えがあったので時間の長さは気にならなかった。エドワード・ウィルソンという架空の人物を主人公に、映画の素材としては散々使い尽くされた感のあるCIA(大抵、悪者役)の草創期からキューバ危機に至るまでの経緯が緊迫感溢れる演出で描かれ、米国現代史の裏側を覗き見る面白さを感じたと同時に、組織に翻弄される人間の人生の苦さが胸を突いて印象的だった。

 米CIAは、第2次世界大戦時に諜報活動を行った米軍のOSS(Office of Strategic Services、戦略事務局)を前身として戦後発足された諜報機関だ。資料によれば、草創期の主たるメンバーはイェール大学に存在する秘密結社スカル&ボーンズ(Skull&Bones、頭蓋骨と骨、以下S&B)の会員から選抜されたエリート学生であったらしい。S&Bとは、米国の名家(と言ったら、やっぱり1620年にメイフラワー号に乗って米国に渡って来た初期の移民の子孫を指すのだろうか?)の出身者のみが入会を許され、将来は米国政財界のトップを目指すエリート集団のようである。ブッシュ大統領は祖父の代からこのS&Bのメンバーであり、大統領選でブッシュ大統領と戦った民主党のジョン・ケリー候補も同メンバーであったと言う(しかし「ブッシュ大統領もメンバー」となると、失礼ながら(..;)「能力」より「血筋」なのかなと思う。エリートをエリートたらしてめているのは、結局”身内”の助け合いなのだろうか?)

 結局人間は自由な新世界を求めても、そこで新たな階層社会を築くものなのか。S&Bメンバーの祖先であるピューリタン(清教徒)も、英国国教会(教義的にはカトリックに近い)の縛りから逃れるべく米国に渡って来たはずが、新天地で自分達を頂点とする階級社会を作り上げたのである。こういうところに、人間の逃れられない業のようなものを感じるなあ。

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かつては詩を愛し、諳(ソラ)んじた情緒豊かな若者だったエドワードが、組織の中枢に身を置けば置くほど、人間としての心を失って行く。命令とあれば、新婚で身重の妻を置いて海外の戦地へ。生まれた我が子を数年もその手に抱くこともない。常に緊張を強いられる勤務状況下では、家族の孤独と不安を顧みる余裕すら持てない。

 主人公エドワードがCIAの過酷な任務に身を投じた原点には、父の不名誉な死があったのかもしれないが、その父の、我が子エドワードに託した真の思いに、彼はもっと早く気付くべきではなかったのか?彼のその時々の選択(軽率な行動とも言えるだろうか?それが愚かであるがゆえに人間的でもある)は、皮肉なまでに彼の人生の歯車を狂わせて行く。もう後戻りできないまでに、非情な組織のメンタリティに染まりきった彼は、自分が組織の人間である前に、夫として、父親として、そして人間として何をすることが最善なのかの判断さえつかなくなってしまう。

 (公式サイトでは「国民の」とあったが)「国家」の良き羊飼いたらんとして彼が人生で失ったものはあまりにも大きい。その人生は家族をも巻き込んだ自己犠牲の人生であり、私には到底理解し得ないものだが、キリスト教的価値観の文脈の下では肯定され得る生き方のひとつなのだろうか?

 ロバート・デ・ニーロ監督は当初、エドワード役にレオナルド・ディカプリオを想定していたようだが、レオのスケジュールの都合がつかず、マット・デイモンということになったらしい。レオならどんな風に演じたのだろう。個人的には知性派マットの抑制した演技は人物像に迫真のリアリティを与え、良かったと思う。彼のヨレヨレのコートの後ろ姿が、(”神”にも匹敵する権力を手中に収めたにも関わらず)悲愴な雰囲気を湛えた残像として、今も脳裏に焼き付いている。

 ◆『グッド・シェパード』公式サイト:http://www.goodshepherd.jp/

【追記:2008.12.19】監督陣はレオやブラピがお好き?

今朝、新作『地球が静止する日』のジャパン・プレミアの為来日したキアヌ・リーブスのインタビューを見たが、彼の代表作のひとつである『マトリックス』の主演も、ウォシャウスキー兄弟監督は、当初ブラッド・ピットレオナルド・ディカプリオを想定していたそうである。それを脚本に惚れ込んだキアヌが強力アピールで自分のものにしたそうだ。私はキアヌの平静の姿(大抵長髪で髭面)と役柄とのギャップから、彼の役を作り込むプロ魂を感じるのだが、その彼の仕事に対するストイックな姿勢が好きだし、今となってはマトリックスのネオ役は彼以外にイメージできない。それにしても、監督陣はレオやブラピが好きなんだなあ。

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電波少年的突撃取材記録映画『シッコ(Sicko)』

 米国は世界第一位の経済大国でありながら、先進国で唯一公的健康保険制度を持たない国である。国民は高額な医療費に対して民間の医療保険で備えるしかないが、国民の6人に一人は無保険で、毎年1.8万人が治療を受けられず死んで行くと言う。問題はそれだけに留まらない。頼みの綱の「医療保険」さえ米国では当てにならないと言うのだ。本作はその問題点をレポート。

米国の医療制度から見捨てられた9.11の英雄65
 保険会社は、「治療は不要」と診断した医師に対し「(保険会社の)支出を減らした」と報奨金を与える一方で、加入者には難癖をつけて保険料の支払いを拒否。政治家には多額の献金で自社に都合の良い法律を作らせ、挙げ句は保険会社の手先となった政治家が公的医療保険制度の成立を「社会主義への第一歩だ」と阻止する。まさに金の亡者が、国民の命をないがしろにしている。愛国者マイケル・ムーア(彼は体制側の痛いところを衝いているだけで、その実、米国を愛して止まない愛国者だよね)は、そうした米国の現状を正すべく、”彼なりの手法”で金の亡者らを糾弾する。

 『ボーリング・フォー・コロンバイン』『華氏911』と見て来たが、 本作が一番胸にズシンと来た。なぜなら米国の無慈悲な医療制度を通して見えてくるのは、人間の尊厳を巡る問題だからだ。人の命さえ金次第という資本主義の在り方は果たして正しいのか?人道上許されるものなのか?国民の必要最低限の権利保護の問題において、資本主義だの社会主義だのとイデオロギーを持ち出すのはいかがなものか?それこそ原理主義的な見方が本質を見誤らせているとしか思えない(殊更イデオロギーを持ち出すのは、単に既得権益を守りたいが為の方便なのかもしれない)

 その米国とは対照的なパラダイスとして描かれているのが英国、フランス、キューバ、そして隣国のカナダである。これらの国々では、医者は「患者を治療する」という自らの職務を全うし、国民は生命の危険も生活不安も感じることなく、必要十分な医療サービスを受け人生を謳歌している。その描写は”礼賛一辺倒”でいささかキレイゴト過ぎるきらいはあるが(どんな制度も万能ではない。正負の両面を抱えているものだ)、これくらい彼我の違いを際立たせなければ、(非支配階級の、つまり庶民)米国民は自分達の置かれた境遇の不合理性に気づかないのではないか。所謂マイケル・ムーア流のショック療法なんだろう。

【追記】『シッコ』の中で、英国の医療制度はバラ色のごとく描かれているが、9月1日付の「サンケイ・エクスプレス」11面コラムでは、その弱点についての言及があった。英国では確かに公立病院は医療費が無料だが、(以前よりはだいぶ改善されたものの)手術は順番待ちで時間がかかる為、富裕層は高い手術代さえ払えばすぐに手術できる民間の病院を利用するのだとか。さらに別の資料によれば、日本の医療保険制度はこの英国の制度に倣ったものであり、日英共に増大する医療費に頭を痛めているのも事実なのだ。

 コラムは「医療にはお金がかかる。問題は、公費と私費のバランスをどう取り、何を節約してゆくか(中略)費用は結局、誰かが負担するのだから」と結んでいた。

英国の公立病院では出産費用も無料
65_2  「英国はVAT(付加価値税)率が高いから、これだけの社会保障が可能なのだ」との反論が出るかもしれないが、どんなに高い税率でもそれが正当に国民に還元されるのであれば国民は納得するはずである。一方、日本では納めた税金が湯水の如く無駄遣いされて(公務員による保険料の横領事件も多いらしい。その総額は億単位どころではないだろう)国民に正当に還元されないから、財源不足を理由に税率アップと言われても国民は納得が行かないのだ。

 ところで、最近気になるのが平日の昼間にやたらと多い医療保険のCM。平日の日中に在宅でTVを見ている老人を主なターゲット(他に専業主婦など→私だよ!)「保険で安心」を売り込んでいる。それが殆ど外資の保険会社なのだ。本作『SICKO』を見終わってからは、この状況に何だか不気味な予兆を感じた。これは何を意味するのか?何かの前触れなのか?(杞憂だと良いけど)

 今年から我が国は団塊世代の大量退職時代を迎えている(所謂2007年問題ですね)。1000万人はいると推定される団塊世代が社会保険料を支払う側から受給する側へ。「年金」「健康保険」と言った社会保障制度は、増える支出に収入が追いつかない、本格的な少子高齢化社会の到来で破綻寸前だ。特に老年層の増加に伴う医療費増大を踏まえて、政府は(公費負担分の)医療費の大幅削減、介護医療の民間委託を積極的に進めている。それによって国民個々の医療費負担は増え、医療や介護サービスの地域間&階層間格差拡大、或いは質の低下が危ぶまれている。その行き着く先には何が待ち受けているのか?…本作にはその一端が描かれていると感じた。

 そんな折も折、奈良県では昨年に引き続き、救急患者のたらい回しで死亡事故が起きた。昨年は妊婦だったが、今度は胎児である。奈良県の問題はひとり奈良県だけの問題ではなく、医師の都市部への偏在など、国の医療体制そのものの問題でもある。「命に地域間格差があってはならない」というのが、公的医療制度の根幹ではないか?増大する一方の医療費も「対処のしようがない問題」というわけではなく、過日テレビで紹介されていた夕張市や、本作で取り上げられたキューバにおける予防医学の見地に立った医療の実践により大幅な削減が可能なはずだ。

 何事も諦めてはいけないのだ。自身に悪い点があれば、他者の良いところを謙虚に見習えば良い。マイケル・ムーアも本作でそのような主旨のことを述べていたのが印象的だった。

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■特に地方に顕著な医師不足解消策として…

 8月28日付日経朝刊報道によれば、「厚生労働省は、医師の過不足に応じ、病院間で機動的に医師を融通しあう新制度を作る検討に入った」らしい。「自治体仲介に基づく医師派遣の体制を整える」ものであり、「(人材派遣業等の)民間企業による医師派遣は『原則禁止』の方針を維持する」。

■増大する医療費の問題の解消策のひとつとして…

 本文記事でも言及したように、医療費の節減、国民のクオリティ・オブ・ライフ(できれば病気を予防すること。たとえ病を得たとしてもただ生きながらえるのではなくひとりの人間として充実した人生を送ること)の観点からも、「食生活の改善」「日常的な運動習慣」そして「定期検診」を積極的に促す「予防医学」の分野は今後益々重要になって行くのだろう。特に急速な高齢化を睨んで「生活習慣病」をターゲットに。誰しも病気になってから治療や手術で苦しむより、病気を予防して健康に暮した方が良いはず。

 日本有数の高齢化地域で、自治体として破産してしまった(つまり医療費負担をできるだけ減らしたい)夕張市。そこに赴任した「地域医療請負人」と称される医師による予防医学の見地に立った医療の成果は、まず患者の検査数値の劇的な改善投薬量の減少(←これは患者の負担軽減と同時に医療費削減にも効果がある)という形で現れているらしい。こうした試みが全国レベルで広がれば良いのにと思う。

 公開に先立って、薬害エイズ被害者で、先頃参議院議員に当選した川田龍平氏ら国会議員や医療関係者が出席した試写会も開催された。

■川田龍平氏も鑑賞した『シッコ』(goo映画):http://movie.goo.ne.jp/contents/news/NFCN0011306/index.html 

 記事中に登場する「全国保険医団体連合会」とはどんな団体だろうとウィキペディアを参照してみたら、その発足の経緯の中で日本の健康保険制度の歩みについても触れられていて興味深い。

■全国保険医団体連合会:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E4%BF%9D%E9%99%BA%E5%8C%BB%E5%9B%A3%E4%BD%93%E9%80%A3%E5%90%88%E4%BC%9A

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ボルベール<帰郷>(原題:VOLVER)

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『オール・アバウト・マイ・マザー』
『トーク・トゥ・ハー』
そして、本作 『ボルベール』

 ペドロ・アルモドバル監督の女性賛歌3部作の最終章を飾るに相応しい作品だと思う。始まりはサスペンス・タッチ。全編を彩るが鮮やかで生々しい。粗筋は敢えて知らずに見た方が楽しめると思うのでここでは紹介しない。

 母娘3代に渡る因果に、運命の残酷さを感じた。懸命に生きているのに報われない彼女達。しかし、その過酷な運命を受け入れ逞しく生き抜く姿は、人生賛歌とも言うべき味わいに満ちている。

 主人公のライムンダを演じるペネロペ・クルスは真性のいい女になった。小悪魔的な魅力に円熟味も加わって(と言っても、まだ33歳!容貌的には監督の要望に応えて”つけ尻”まで装着しお尻を大きく見せたと言う)、今回の母親役も板についている。姉のソーラ、娘のパウラ、故郷の伯母、その隣人のアグスティナなど、彼女を取り巻く女達も皆、ひと癖もふた癖もあってそれぞれに存在感があり目が離せない。その卓越した演技で、全員揃ってカンヌ国際映画祭で最優秀女優賞を獲得したらしい(他に最優秀脚本賞を受賞。ペネロペは米アカデミー賞で堂々主演女優賞にノミネートされた)とにかくこの映画は女が主役。こんなに男の影が薄い映画も珍しかろう。


60_6  故郷ラ・マンチャ(アルモドバル監督自身の故郷でもある)に吹きすさぶ強風、故郷の善良な隣人アグスティナの言動、ことあるごとに「祖父にそっくり」と言われる娘パウラの目元など、散りばめられた伏線が、物語が進むにつれ収斂されて行く脚本の見事さには思わず拍手。

 見応えのある、哀しいけど人生の滋味たっぷりな、そして「人生何があろうと生きて行かなければ」と励まされる作品とでも言おうか。私自身が40代の女だからこその感想だろうけど。結構深刻な内容なのに、スペイン人ならでは?のあっけらかんとしたラテン気質にも救われている。

 タイトルのVOLVERは元々アルゼンチン・タンゴの名曲で、劇中でもペネロペが”フラメンコの最も自由な形式ブレリーア”(と言うらしい)のリズムで艶(つや)やかに歌いあげる(実際の歌唱はエストラージャ・モレンテによる)。この曲の初出は、アルゼンチン・タンゴの創始者でこの曲の作者でもあるカルロス・ガルデルが主演映画で自ら歌ったもので、その後のスペイン歌手の歌唱によって今やスペインでも愛されている曲らしい。世界を巡った末に故郷に戻る男性歌手の心情を綴った歌詞らしいが、映画のストーリーにも絶妙に嵌っている。他に、本作同様”母娘の物語”であるルキノ・ヴィスコンティ監督作品『ベリッシマ』を劇中でさりげなく登場させるあたり、監督の道具立ての巧さが光る。

■映画『ボルベール』公式サイト:http://volver.gyao.jp/
■映画『ボルベール』データ:http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=325137
■映画『ベリッシマ』データ:http://www.allcinema.net/prog/show_dvd.php?num_sid=435710  
■挿入歌『VOLVER』の歌詞(西・英版):http://www.planet-tango.com/lyrics/volver.htm

【おまけ】 
 昔、半年ほどスペイン語を習ったことがある。講師は大学教授で、彼の口癖は「スペイン語は詩的で美しい」というものだった。確かにスペイン語をはじめとするロマンス語は、英語に比べて抑揚が柔らかで、あたかも歌を歌うかのようだ。またこうも言われた。「母国語として最も世界で話されている言語はスペイン語である」と。結局スペイン語はさわりを学んだだけで終わったが、講師の口癖はスペイン語の魅力的な一面として私の脳裏に刻みこまれた。

 それから何十年も経った数年前にはイタリア語を週に1回の割合で3年間学んだ。これは自分なりにマジメに勉強したので、現地に旅行目的で滞在する分には不自由なく過ごせるほど話せるようになった。するとイタリア語とスペイン語は同じロマンス語族で親戚のようなものだから、次第にスペイン語も何となく分かるようになった。構文や文法は似ているからね。後は発音を微調整するだけ。自宅にはイタリア語辞典と共にスペイン語辞典も置いてあるので、折に触れて2冊同時に使って比較しながら単語を覚えたりしている(ついでにフランス語も)。

 その成果を試す意味でもスペイン映画を見るのは楽しい。今回、意外なほど聞き取れ、理解できたので、スペイン語にも益々興味が湧いて来た。もちろんスペイン映画の魅力はそれだけでなくて、スペインならではの大らかな人々の気質や独特の美意識でもあるけど…さすがミロやダリやピカソを生んだ国だけのことはある。

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ダイ・ハード4.0(原題:LIVE FREE OR DIE HARD)

80  まさに4.0―バージョン・アップだ!

 文句なく面白い!息つく暇を与えない怒濤のアクション・シークエンス。die-hardな男ジョン・マクレーンにかかれば、ヘリコプターや戦闘機だって形無しってもんだい(笑)。前作から12年経って、どんな物語を見せてくれるかと半ば期待、半ば不安を持って公開を待っていたが、見事に今日的な題材で以て還って来てくれた。デジタル(ハッカー)とアナログ(ジョン)の見事なコンビネーションは、シリーズものにありがちな失速感もどこかに吹き飛ばしてくれたよ!過去の成功にあぐらをかくことなく、”あくまでも攻め続ける”製作者の姿勢は表彰もの!!

 もちろんユーモア溢れるぼやきが特徴のマクレーン節も健在(笑)。大袈裟な大義名分もなく、もったいぶった動機付けもない、ただ目の前の敵に、満身創痍になりながらも立ち向かう我らがジョン・マクレーン。シリーズに一貫する、そのシンプルなヒーロー像が、この作品の最大の魅力と言えるのかもしれない。

 脚本、キャラクター、アクションと3拍子揃って、今年見たアクション映画の中では出色の仕上がり☆今夏、イチオシのアクション巨編と言えるだろうか。できるだけ大きなスクリーン、素晴らしい音響設備の映画館で、die-hardアクションの凄さを体感して欲しいその凄さと言ったらもう…これはSF映画かとみまがう(見粉ふ)ばかりの、現実では絶対あり得ないことばかりだから(笑)。

 逆に、この作品が描くサイバーテロ犯罪は、電気・ガス・水道のライフラインから、行政・経済・金融に至るまで、全てコンピュータ制御されている現代社会の脆弱さを衝いて現実味を帯びているのだから、背筋が寒くなるような恐怖を覚える。マジ・ヤバイ。

【追記】

Photo_22  邦題と原題が違うのはよくあることだが、本作もそうだ。たまたま見つけた記事~J-CASTテレビウォッチ日曜コラム ~によれば、今回の原題は、独立戦争時代にまで遡る有名な演説の一節で、米ニュー・ハンプシャー州のスローガンでもある"LIVE FREE OR DIE"(自由に生きるか、さもなくば死ぬか)をもじったものらしい。だから米国人なら、このタイトルに思わずニヤリとするのだろうか?しかし米国人ならともかく、日本人には馴染みのない言い回しだから、今回はよりシンプルで分かり易い邦題をつけたということのようだ。確かに『DIE HARD 4.0』の方が、本作がシリーズ4作目、しかも”.0”を付加することでサイバーネタであることを暗示させて、多くの日本人に理解され易いと思う。タイトルの違いの裏に隠された文化的差異?を知るのも楽しいものだね。さらに追記:英国でもタイトルは『ダイ・ハード4.0』らしいから、『LIVE FREE~』は米国内限定のタイトルなのだろうか?)


  【追記2 2007.07.07】

 「イーピーカイエー くそったれ」
 “Yipee-yi-yea... mother-fucker.”

 
 シリーズを通じて登場する決め台詞が気になって調べたら、以下のサイトに解説があった。カウボーイの雄叫びのようなもので、ウエスタンショーでよく耳にする言葉なんだとか。特に意味はないらしい。第一作で相手に時代遅れの「カウボーイ」呼ばわりをされたジョンがすかさず切り返したのが始まり…

■参考サイト:MEDIA GUN DATABASE

60_10 【追記 2007.7.8】

 マイレージ・ポイントを使った2度目の鑑賞で気付いたこと。それは主な登場人物の名前の符号的一致である。

 なんだ、聖書にまつわる名前のオンパレードではないか?特にジョン(ヨハネ)マット(マシュー→マタイ)ルーシー(ルカの女性名) は、イエスの生涯とその教えを記した福音書記者である。もうひとりのマルコの名前が見当たらないが、もしかしてFBIの副局長ボウマンのファーストネームがマーク(マルコ)かも(笑)。

 敵役のガブリエルのファーストネームはトマス。12使徒のひとりである。イエスの弟子の中では疑り深く、的外れな言動が目立った人物(ファミリーネームのガブリエルは天使の名前だね。所詮、主役にはなれないということか?)対してジョン(ヨハネ)はイエスに最も愛された弟子と言われる。フランスなどでは、日本のように自由(自由過ぎて、最近読みづらい名前が多いのも困りものだが…)に子供の名前を付けることは許されず、聖人や偉人の名前が殆どらしい。そう言えば、芸術家の名前もやたらとジャン=バティスト(洗礼者ヨハネの意)が多い印象。

 それぞれの役名は単純に聖書にまつわる名前をあてがったのではなく、多少なりとも役名によって各々の性格づけがなされたのだろうか?そう考えて見てみると、また面白いかもしれない。

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プレステージ(The Prestige)

60_3   「目を凝らせ」―この言葉が劇中何度となく繰り返される。観客は舞台を見ているようで肝心なところは何も見ていない。それが大仕掛けのマジックの成功を支えている。しっかり見ているつもりでも、たぶん騙されてしまうのだ。この場合、逆に騙されない者は楽しめない。そして種を明かされようものなら、途端に興ざめしてしまう。トリックとはそういうものなんだろう。

 この作品は男性マジシャン二人の確執を軸に物語が展開するのだが、マジックに取り憑かれた二人の対決が陰湿で、ネチッこくて、男性のライバル意識や執念や怨念も女性に負けていないなと思った。この二人を人気俳優ヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベールが演じているのだが、二人の間を行き交うヒロインが今をときめくスカーレット・ヨハンソン。

40_440_5   しかし、この作品の演出を手掛けたクリストファー・ノーラン監督、彼の名声を一気に高めた『メメント』を私はあいにく未見なのだが、その後の『インソムニア』『バットマン・ビギンズ』を見ても感じたと同様に、女性を描くことがあまり得意ではないのかな?当代きっての”華”であるはずのスカーレットの魅力が本作ではあまり伝わって来ない。露出度の高い衣装で惜しげもなく肢体を晒してはいるものの、強烈な男性二人の対決の影に隠れて、彼女の存在感が希薄なのだ。『マッチ・ポイント』の彼女の方がずっと良い。

 物語の展開も、印象としては『デジャブ』で感じたようなモヤモヤが残った。「な、なんだこの転調は?!」―まったくもってトリッキーだ。単なるサスペンスじゃないんだよね。舞台の19世紀末から20世紀初頭は工業化の時代、科学の時代であったのだから(実在の人物を登場させて”リアル感”もそこそこまぶしていたり…) 、”ソレ”もアリなんだろうが、おそらく想像するに、鬼気迫る二人の心理劇がこの作品の一番の”肝”であり、物語の整合性や合理性よりも優先されたのだろう。

 キャスティングは主役級の3人を始めなかなか豪華。名優マイケル・ケインに、お久しぶりのデヴィッド・ボウイが脇を固めている(そしてLoRのゴラムも!)。ボウィはさすがに年を取ったなあ…仕方ないが、少しショック。米アカデミー賞撮影賞、美術賞にノミネートされただけあって映像も美しい。トリックの監修も当代随一のマジシャン、デビッド・カッパーフィールドが手掛け、いかにもお金をかけた映画という感じだ。こういう大仕掛けの”トリック”は観客も好きだろう。

 Yahooのレビューサイトには既に20以上のコメントが寄せられている。それらをザッと読んでみたが、本当に感想、評価はひとさまざま。たぶん、そういう映画なんでしょう。『ザ・シューター』よりは、個人的にはこちらの方が好み。(5月17日、試写会にて)

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しゃべれども しゃべれども

50_1  まず見終わって、寄席に行きたくなった。これ、夫婦共通の思い。(結構年季の入った)ジャニーズ系アイドル?の国分太一がかなり頑張って、主人公の二つ目の落語家を生真面目に演じている。たぶん寄席や独演会で生の落語を聴いたことのない人から見れば、その噺家ぶりは十分満足の行くレベルに達していると思う。素人の国分がよくぞここまで、と感心することであろう。

 しかし生の落語を何度も聴いた者には、最初から最後まで肩に力が入った彼の一生懸命さが、「ちょっと違うんだな」ということになる。やっぱり落語には”遊び”がなきゃ。飄々として掴み所のない”軽さ”がなきゃ。でもまあ、この作品は落語の出来不出来を問う話ではないからね。

  何と言ってもこの作品は、ひょんなことから落語教室を開くことになったうだつの上がらない二つ目の落語家と、それぞれに悩みを抱えた3人の”教え子”との交流を描く東京の下町を舞台にした、落語を肴に展開する人情物語ですから、あくまで(と言っても、見方によっちゃあ、落語もまた主役と言えるんですけどね。もちろん、国分さんの頑張りは認めていますとも!あ…よくよく考えてみれば、国分さんはそれで良いんですね。彼が巧い噺家だったら、そもそもこの物語は成立しない)

Photo_20 ”遊び”という点では子役の森永悠希くんが上手(うわて)ですね。彼は噺を自分のものにした上で自分自身も楽しんでいる。そもそもオーデションの段階で、唯一人「まんじゅうこわい」をそらで覚えていたのがこの森永くん、という逸話が残っているほどだから、只者じゃない(笑)。とにかく一席演じる彼の、さも楽しそうな様子に釣られて笑ってしまう。微笑ましいとでも言おうか。設定では、大阪からの転校生ということになっているが、その実バリバリの浪速っ子らしい。ここでも大阪弁独特のリズム、軽妙さが生きている。 劇中、彼が落語のお手本にしたのが、今は亡き桂枝雀いささかオーバーアクションの、在りし日の彼の一席が、映画の中でちょこっと拝めるのは何だか得した気分。同時に上方落語が彼を失った哀しさ、寂しさも感じて切ないよ。 

 映画には”華”もなきゃ、と言うことで、モデル・女優としても活躍する香里奈(←ちなみに彼女の映画初主演作『深呼吸の必要』も良いよ♪)が出演。クール・ビューティな彼女が、口の利き方を知らないぶっきらぼうな美女を演じて、結構楽しい。周囲からは高飛車だと誤解されがちな、こういう美女、案外身近にもいそうだ。ただ口下手なだけなのに。仏頂面の松重豊も、不器用な男の代表としては、やっぱり必要な存在だろう。そして主人公の祖母と師匠を演じて脇をキリリと固め、若手演者を助けるのが、ベテランの八千草薫伊東四朗。この二人がいなかったら、この映画は締まらなかっただろうな。その存在感と手堅い演技はさすがだ。正に人生の酸いも甘いも噛み分けた人ならではの包容力で、不器用な若者達を温かく見守っているという役柄にぴったり。

 本作は、97年度『本の雑誌』ベスト10 第一位に輝いたという小説(佐藤多佳子作)の映画化。原作者の佐藤さんはこの小説を書くまで、もっぱら落語を読物として楽しんでいたというから意外だ。落語は、噺家によって初めて”生命(いのち)”を与えられるものだと私はずっと思っていたから(もちろん、あくまでも私見)。監督は平山秀幸。平山監督と言えば、原田美枝子主演の『愛を乞う人』(←この作品は見応えがあった)を撮った監督だ。本作は傑作とは言わないまでも、見終わった後に心が温かくなるような珠玉の一品だろうか。そして思わず寄席に行きたくなってしまう、落語の魅力を伝える一品でもある。

 蛇足ながら、やはり噺家は落語を耳から覚えるようだ。だから言葉(の意味)は知っていても、その漢字は書けなかったりするのだろう。 

■映画公式サイト:http://www.shaberedomo.com/

Photo_23  そんでもって、久しぶりに夫婦で寄席に行って来た。寄席はやっぱり楽しいや。なんたってインタラクティブですから。噺家に絡まれたり(笑)、正楽師匠にリクエストして”紙”を切って貰ったり(左図がそれ。「何かリクエストがあればお切りします」と言われ、「あじさい」をリクエストしたら、ものの2~3分で仕上げてくれた。まさに名人芸!先着3名様?まで。欲しかったら、できるだけ前の席で力強くリクエストすること(笑))…平日の昼間だと言うのに、上野広小路の鈴本演芸場はほぼ満席に近い大入りだった。噺家のひとりが枕でこの映画について触れていたから、やはり映画の宣伝効果は大きいのだろう。原作小説もこれでまた注目されて売れているのではないだろうか?

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ザ・シューター 極大射程

60_2  昨夜、よみうりホールで行われた試写会を見てきた。本作は、前年度に発行されたエンターテインメント&ミステリー小説の読者投票によるランキング「このミステリーがすごい!」2000年度版で、海外部門第一位に輝いた小説『極大射程』の映画化らしい。例によって私は原作を読んでいない。

従ってこれは、あくまでも映画作品としての感想である。

 ここ最近のエンターテインメント系映画の傾向のひとつは、「アフリカ」、「アフリカを食いものにする先進諸国」、「(喩えるなら)巨象に立ち向かう1匹の蟻」という3つのキーワードで語れると思う。本作もその傾向に見事に嵌った作品と言える。今やヒーローの敵は国家(ソ連)やイデオロギー(テロリスト)ではなく、そうしたものを超えたところで手を組んで「搾取により巨利を生み出すシステム」である。こうした戦うべき相手の変遷も興味深いところだ。次は何が来るのだろう?

 もっとも本作は、重なる要素を持ちながらも既出の作品群とは趣を異にしている。あくまでもスナイパーの個人的な義憤に焦点が当てられ、社会派色はかなり薄め。巨悪に立ち向かう孤高のスナイパーの活躍が物語の肝であり、真骨頂でもある。

 しっかりとした原作があるからプロットに破綻はない。キャストも熱演。ところが何か物足りない。どことなくチープ感が漂うのだ。このことは映画を見ながらずっと気になっていた。見終わって、アフリカ問題に触れながら、アフリカでアフリカを描いていないことに気がついた。既出の『ナイロビの蜂』にしても、『ラストキング・オブ・スコットランド』にしても、そして現在公開中の『ブラッド・ダイヤモンド』にしても、アフリカの壮大で豊かな自然をあますことなく描写している。それが、搾取され続けるアフリカの悲劇性を際だたせ、物語をよりリアルに感じさせているのは間違いない。
 
 制作予算の関係なのだろうか。本作は殆ど北アメリカ大陸で撮影が敢行されたと想像するが(これはこれで、雄大なロッキー山脈の眺めが素晴らしいとも言えるが)、宣伝で比較対象に挙げられている”ジェイソン・ボーン”シリーズの贅沢な海外ロケに、どうしても見劣りしてしまう。これでは主役で好演したマーク・ウォールバーグがあまりにも気の毒である。見方によっては、このことが物語のスケールを矮小化していると言えなくもないが、それともアフリカの話は最初から”刺身のツマ”でしかなかったのだろうか。
 
 ところでアメリカのアクション・ヒーローには、スティーブ・マックィーン(子供の頃大好きだった!)を祖とする”猿顔”の系譜の連なりでもあるのだろうか?本作のマーク・ウォールバーグ、マット・デイモン共正統派の美男子とは言い難い。しかし、かつてスティーブ・マックィーンがそうであったように、激しいアクションも厭わないクールで野性味溢れる魅力を発散して、幅広い人気を獲得しているようである。

Photo_19  因みにマーク・ウォールバーグはボストンのスラムに9人兄弟の末っ子として生まれ、少年時代は相当なワルだったらしい。一時は兄に誘われ人気アイドル・グループ”ニューキッズ・オン・ザ・ブロック”にも在籍したことがあるらしいが、グループのクリーンなイメージに馴染めずに早々と脱退。その後、『バスケットボール・ダイアリーズ』で共演したディカプリオの推薦で『ブギーナイツ』の主役を射止め、以後は着実に成功の階段を昇っている。今後の活躍が益々楽しみな中堅俳優の一人である。共演のマイケル・ペーニャも要注目の俳優だ。どこかで見覚えがあるなと思ったら、現在公開中の『バベル』『ミリオンダラー・ベイビー』『クラッシュ』と、このところの話題作・秀作への出演が(脇役ながら)目白押しの俳優なのだ。

【参考リンク】
■マーク・ウォールバーグ インタビュー:http://cinematoday.jp/page/A0001387

以下はネタバレにつき反転表示で…
 射程距離、角度、風力、風向はもちろんのこと、温度、湿度、そして地球の自転に至るまで考慮して射撃を行うというスナイパーの繊細な仕事ぶりを本作で初めて知った。銃を巡る事柄に関して、いろいろ知られざる一面が窺えるのも本作の見どころかもしれない。しかし「目には目を」「暴力には暴力を」という思想にどうしても馴染めない人には、結構精神的にハードなシーンの連続である。個人的には物語の結末にも爽快感はなかった。

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映画『バベル』は観客を選ぶ?

 この作品は人を選ぶ作品なんだろう。見た人によって評価が大きく分かれるようだ。一緒に見た夫は「いまじゅう(イマイチの10倍という意味らしい)」とバッサリ。私自身、どう評価して良いのか判らない。傑作なのか?駄作なのか?はたまた問題作なのか?

 ただ、見ながらいろいろ考え、思う要素はあった。やはり自分の経験や知識や価値観に照らして映画は見るものなのだろう。だから同じ作品を見ても見る人それぞれに印象は異なる。主題からはかけ離れた枝葉末節に目が行ったりもする。例えばモロッコの風景。赤茶けた土漠の丘陵が連綿と続く。その間を縫うように走る道路。まるで私がかつて住んでいた中東の、郊外の風景そのままで懐かしさを覚える。

※ご注意!以下は映画の内容に触れています。
 
 そこで羊や山羊を放牧してつましく暮らす一家がいる。中東・アフリカの遊牧民族にとって家畜は貴重な財産である。それをジャッカルなどの野獣から守ることは重要なことだ。知人から羊数頭と引き換えに手に入れたライフル銃は、一家の財産を守る為の武器である。そこでは子どもも貴重な働き手であり、だからこそ父親は外出の間、羊の番をする二人の幼い息子達にライフル銃を託したのだった。国、住む場所が違えば、常識のモノサシも異なる。その素朴な暮らしの中で、あらゆることにまで思いを致す必要もなかったりする。しかし運命のいたずらか彼らの予想だにしないことが起き、幼子が放った一発の銃弾が異国からの旅人を傷つけてしまう。

40_2 妻が死にそうだ。早く助けを!
 ある出来事をきっかけに壊れかけた夫婦の絆を取り戻そうと旅に出た米国人夫婦。しかし、なぜその行き先がモロッコなのだ?しかも幼い子ども2人をメキシコ人乳母に託して。いかにも不機嫌な妻。その妻が凶弾に倒れ、治療もままならない異国で夫は右往左往し、理性を忘れ、周囲の人間に対して傲慢さを露わにする。


40_3
 更に間の悪いことに、夫妻の幼子を預かる乳母は翌日に故国メキシコで息子の結婚式を 控えている。代わりの乳母の手当もできずに途方に暮れる彼女。「仕方がない。迎えに来てくれた甥の車に幼子二人を乗せてメキシコへ向かうしかない。」軽々と越境する車。しかし出国は容易くも、再入国はままならない…
私はいったいどうしたらいいの… 


60_1 東京の聾唖の女子高校生。不機嫌な表情を隠そうともせず、常に挑みかかるような態度で周囲との軋轢を生んでいる。怒りを爆発させたかと思えば、逆にしなを作って異性を挑発したりする。彼女は何に怒っているのか?何を求めているのか?結局は壊れかけた心の空洞を埋めるべく他者との濃密な関わりを求めているのか?
 
 あからさまな性衝動(これには本当にビックリした。少なくとも自分の身近に彼女のような女子高校生はいないから。部活にクラブ通いとなれば、勉強どころか寝る時間もなかろう)は、愛情に飢えた末の行動とでも言うのだろうか?しかし、それはあくまでも若者が取り得る行動のひとつに過ぎないのではないか。それとも言葉でうまく伝えられない分、身体(ボディランゲージ)で伝えずにはいられないということなのだろうか?実際は聾唖という障害を持っていなくとも、言葉で気持ちを上手く伝えられない若者達(若者に限らないかもしれない)は幾らでもいるような気がする。

 クラブの喧騒の中に身を置く彼女に、その喧騒は聞こえない。狂喜乱舞する若者達の姿と明滅する照明と体感する振動とで、彼女はその喧騒を感覚しているのだろうか?―私は彼らと何も変わらない。私は彼らと繋がりたい…そんな彼女の心の叫びが聞こえて来るようだ。もちろん本当に繋がりたい相手(その存在感の希薄さも、この作品では気になるところ)は他にいる。 
  
 繋がりたいはずの相手と、なぜか上手く行かない意思の疎通、ただ幸せに生きたいだけなのに、その切なる思いを嘲笑うかのようにままならない人生―人は時に絶望しながらも、与えられた運命の下に自らの人生を生きて行くしかないのか。

 本来ならば生涯関わり合うはずがなかったであろう人々が、本作では、放たれた一発の銃弾によってその遙かなる距離の隔たりを超えて交わることになる。そして事態は思わぬ方向へと展開し、それぞれの人生を翻弄するのである。個人的に最も共感する(同情する)のはメキシコ人家政婦に、であろうか。イニャリトゥ監督の前作『21グラム』も、スケールの違いこそあれ、本作と似たようなテイストの作品だったような…ただただ嘆息。

【追記】
 『バベル』は見て楽しい映画ではない。見終わった後の足取りは重かった。結末に仄かな希望を見出す人もいるようだが、私は映画館で目にした物語の結末よりも、登場人物の内の何人かの、その後の物語への想像が膨らんで、胸が苦しくなった。禍転じて福となった人はいい。身内との絆の回復の糸口を掴めた人はいい。しかし、長年の苦難の末に築いた生活基盤を全て失ってしまった人や、愛する者を失った人、重い十字架を背負ってしまった人のことを想うとやりきれない。たとえ、それが映画の世界(虚構)の人生であったとしても。

 5月7日付、日経の夕刊文化欄に、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督へのインタビュー記事が掲載されていた。見出しは「我々を隔てるのは先入観」。以下はその記事を私なりに(勝手に(^_^;))再構成したもの。()内は、記事を読んでの私の個人的感想。

 イニャリトゥ監督はメキシコに生まれ育ち、20代からラジオ局のDJやディレクターとして働き、その才能をハリウッドに認められて、2001年の同時多発テロの数日前にLAに移住(何という巡り合わせ!)したらしいが、正式に映画制作について学んだことはないと言う(だから制作セオリーに囚われない、少々荒削りながらも個性的な作品が生み出せるのだろうか)
 その後ビザの更新のために国境を何度も行き来する中で、偏見が引き起こすトラブルを見聞きしたという。米国で子守に雇ったのは、7度目で国境突破に成功したメキシコ人女性(メキシコ人家政婦のエピソードは監督個人の見聞や経験が生かされているのか?)
 「これまで宗教や経済、人間の様々な考えがほかの文化を浸食するのには何年もかかったが、今はそれがごく短時間に起きる」
 「我々を隔てるのは言葉ではなく先入観」(確かに色眼鏡で人を見たり、物事を判断しがちだなあ…)。 
 グローバル化した世界の影の部分を見据えた『バベル』。6カ国語を話すスタッフや出演者と1年以上、3つの大陸を移動してのその撮影体験は、「とても奥深い人間的な旅だった」
 悲劇的な物語の結末にかすかな希望を滲ませたのは、撮影を通して 「コミュニケーションは違いを乗り越え生きるためにあるのだと勇気づけられた」から。
 メキシコ時代は番組の登場人物を創作し、挑発的な物語を作り
 「ものを書くことを学んだ。僕らの番組は流れる歌ではなく、歌と歌の間の出来事がすごい人気だったんだ」(見る者を戸惑わせる挑発的な物語の源泉はここにあったのか?!)
 今後は?
 「ハリウッドの大作でも映画を作る姿勢は変わらない。インディペンデントの精神で撮り続ける」
 
 これからも目が離せませんな―イニャリトゥ監督。 

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