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2007年6月

Open Society という考え方

50_2   偶然に興味深い番組を目にしたので、ここに要旨を書き留めておく。NHK-BSの「未来への提言 投資家ジョージ・ソロス~国家なき政治家は訴える」というものだ。現在76歳になるジョージ・ソロス氏http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%82%B9)は最も成功をおさめた投資家のひとりであり、総資産は1兆円を超えるとも言われているが、同時に慈善家としても20数年のキャリアを持つ。番組はかねてより懇意にしている日本の民間シンクタンクの理事長とジョージ・ソロス氏の対談の形をとり、慈善家としてのソロス氏に焦点を当て、その思想、哲学をつまびらかに紹介することを試みている。

 ハンガリーに生まれ育ったユダヤ人のソロス氏は、13歳の時にナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に直面するが、著名な弁護士であった父の機転で、彼の家族と周囲の人々は父が用意したニセの身分証によって難を逃れる。戦後彼は英国ロンドンに渡り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学び、そこで出会った科学哲学研究者カール・ポパー教授(『開かれた社会とその敵』)(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%91%E3%83%BC)の思想に多大な影響を受け、彼の慈善事業の母体である財団名にも、ポパー教授の提唱した、社会の理想的な在り方を示す言葉"Open Society"をそのまま採用しているほどだ。

 Open Society~開かれた社会とは何か?彼曰く、それは(いかなる原因・理由によっても)誰もが生命を脅かされることなく、自らの力で活路を見出せる民主的社会である。言うまでもなく、その対極にあるのはナチス・ドイツの全体主義や、共産主義社会に代表される、社会体制への批判が一切許されぬ閉ざされた社会である。さらにソロス氏は国家の貧困と荒廃の原因は”悪い政府”にあると断罪。豊かな天然資源を有しながら、独善的な悪政によって紛争の絶えない国々の政府を名指しで非難する。

 ソロス氏は”開かれた社会”の実現を目指して、50代に自ら立ち上げた財団 Open Society Instituteに、年に4億ドル(480億円)という莫大な私財を投じ、援助活動を展開。当初は母国ハンガリーに大学を設立、ロシアの医療設備の充実のために5億ドル(600億円)、ウクライナに教育費用として100億円相当など、東欧諸国への援助が主だったが、徐々にフィールドを広げ、今ではアフリカ、東南アジア等世界の貧困地域に1500人のスタッフを擁し、世界で感染者が4000万人を超えたAIDSをはじめとする感染症対策、貧困撲滅に力を注いでいると言う。これまでに財団が活動のために投じた金額は総額7200億円にのぼるらしい(桁が大き過ぎて庶民の私には今ひとつピンと来ない…(^_^;))

 ソロス氏の行動哲学は明快である。師の思想を踏襲し、「人間はけっして完璧な存在ではなく、人間の行うことに間違いはつきもの。その誤謬性を自覚し、常に”自分は間違っているかもしれない”と自己批判を忘れないことが重要だ」と説く。これは慈善活動、ビジネスに共通して氏の行動の指針になっていると言う。だからこそ、9.11直後の米国社会の在り方には懐疑的だった。”テロとの戦い”のテーゼの下、それに異を唱えることを許さない空気。そうしようものなら”愛国心に欠ける”と非難された、あの閉ざされた社会の空気。

 氏は言う―イラク戦争は誤りである。米国はそれを認めて是正すべきだ。軍事力があれば、自分達の考え方を押しつけられると考えるのは間違っている。国際関係とは軍事力のみに頼るのではなく、国際協力によって築かれるべきものである。同様にビジネスの世界でも、市場原理主義は危険だ。現状は全てが市場に依存し過ぎであり、それを監視する仕組みさえない。要はルールやバランスが大切なのだ。何事も行き過ぎは不均衡をもたらす。

 現在我々が直面するHuman Security~人間の安全保障に関わる問題への対処にも、国際協力が欠かせない。AIDSしかり、地球温暖化しかり、核兵器拡散しかり…しかしまた、そうした困難が、国際協力を推進する原動力にもなるのだと思う―”(競争”ではなく”協調・協力”の社会へ、今、国際社会は方向転換を迫られているのかもしれない。日本はその逆を行っているように思えてならないのだけど…)

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ダイ・ハード4.0(原題:LIVE FREE OR DIE HARD)

80  まさに4.0―バージョン・アップだ!

 文句なく面白い!息つく暇を与えない怒濤のアクション・シークエンス。die-hardな男ジョン・マクレーンにかかれば、ヘリコプターや戦闘機だって形無しってもんだい(笑)。前作から12年経って、どんな物語を見せてくれるかと半ば期待、半ば不安を持って公開を待っていたが、見事に今日的な題材で以て還って来てくれた。デジタル(ハッカー)とアナログ(ジョン)の見事なコンビネーションは、シリーズものにありがちな失速感もどこかに吹き飛ばしてくれたよ!過去の成功にあぐらをかくことなく、”あくまでも攻め続ける”製作者の姿勢は表彰もの!!

 もちろんユーモア溢れるぼやきが特徴のマクレーン節も健在(笑)。大袈裟な大義名分もなく、もったいぶった動機付けもない、ただ目の前の敵に、満身創痍になりながらも立ち向かう我らがジョン・マクレーン。シリーズに一貫する、そのシンプルなヒーロー像が、この作品の最大の魅力と言えるのかもしれない。

 脚本、キャラクター、アクションと3拍子揃って、今年見たアクション映画の中では出色の仕上がり☆今夏、イチオシのアクション巨編と言えるだろうか。できるだけ大きなスクリーン、素晴らしい音響設備の映画館で、die-hardアクションの凄さを体感して欲しいその凄さと言ったらもう…これはSF映画かとみまがう(見粉ふ)ばかりの、現実では絶対あり得ないことばかりだから(笑)。

 逆に、この作品が描くサイバーテロ犯罪は、電気・ガス・水道のライフラインから、行政・経済・金融に至るまで、全てコンピュータ制御されている現代社会の脆弱さを衝いて現実味を帯びているのだから、背筋が寒くなるような恐怖を覚える。マジ・ヤバイ。

【追記】

Photo_22  邦題と原題が違うのはよくあることだが、本作もそうだ。たまたま見つけた記事~J-CASTテレビウォッチ日曜コラム ~によれば、今回の原題は、独立戦争時代にまで遡る有名な演説の一節で、米ニュー・ハンプシャー州のスローガンでもある"LIVE FREE OR DIE"(自由に生きるか、さもなくば死ぬか)をもじったものらしい。だから米国人なら、このタイトルに思わずニヤリとするのだろうか?しかし米国人ならともかく、日本人には馴染みのない言い回しだから、今回はよりシンプルで分かり易い邦題をつけたということのようだ。確かに『DIE HARD 4.0』の方が、本作がシリーズ4作目、しかも”.0”を付加することでサイバーネタであることを暗示させて、多くの日本人に理解され易いと思う。タイトルの違いの裏に隠された文化的差異?を知るのも楽しいものだね。さらに追記:英国でもタイトルは『ダイ・ハード4.0』らしいから、『LIVE FREE~』は米国内限定のタイトルなのだろうか?)


  【追記2 2007.07.07】

 「イーピーカイエー くそったれ」
 “Yipee-yi-yea... mother-fucker.”

 
 シリーズを通じて登場する決め台詞が気になって調べたら、以下のサイトに解説があった。カウボーイの雄叫びのようなもので、ウエスタンショーでよく耳にする言葉なんだとか。特に意味はないらしい。第一作で相手に時代遅れの「カウボーイ」呼ばわりをされたジョンがすかさず切り返したのが始まり…

■参考サイト:MEDIA GUN DATABASE

60_10 【追記 2007.7.8】

 マイレージ・ポイントを使った2度目の鑑賞で気付いたこと。それは主な登場人物の名前の符号的一致である。

 なんだ、聖書にまつわる名前のオンパレードではないか?特にジョン(ヨハネ)マット(マシュー→マタイ)ルーシー(ルカの女性名) は、イエスの生涯とその教えを記した福音書記者である。もうひとりのマルコの名前が見当たらないが、もしかしてFBIの副局長ボウマンのファーストネームがマーク(マルコ)かも(笑)。

 敵役のガブリエルのファーストネームはトマス。12使徒のひとりである。イエスの弟子の中では疑り深く、的外れな言動が目立った人物(ファミリーネームのガブリエルは天使の名前だね。所詮、主役にはなれないということか?)対してジョン(ヨハネ)はイエスに最も愛された弟子と言われる。フランスなどでは、日本のように自由(自由過ぎて、最近読みづらい名前が多いのも困りものだが…)に子供の名前を付けることは許されず、聖人や偉人の名前が殆どらしい。そう言えば、芸術家の名前もやたらとジャン=バティスト(洗礼者ヨハネの意)が多い印象。

 それぞれの役名は単純に聖書にまつわる名前をあてがったのではなく、多少なりとも役名によって各々の性格づけがなされたのだろうか?そう考えて見てみると、また面白いかもしれない。

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プレステージ(The Prestige)

60_3   「目を凝らせ」―この言葉が劇中何度となく繰り返される。観客は舞台を見ているようで肝心なところは何も見ていない。それが大仕掛けのマジックの成功を支えている。しっかり見ているつもりでも、たぶん騙されてしまうのだ。この場合、逆に騙されない者は楽しめない。そして種を明かされようものなら、途端に興ざめしてしまう。トリックとはそういうものなんだろう。

 この作品は男性マジシャン二人の確執を軸に物語が展開するのだが、マジックに取り憑かれた二人の対決が陰湿で、ネチッこくて、男性のライバル意識や執念や怨念も女性に負けていないなと思った。この二人を人気俳優ヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベールが演じているのだが、二人の間を行き交うヒロインが今をときめくスカーレット・ヨハンソン。

40_440_5   しかし、この作品の演出を手掛けたクリストファー・ノーラン監督、彼の名声を一気に高めた『メメント』を私はあいにく未見なのだが、その後の『インソムニア』『バットマン・ビギンズ』を見ても感じたと同様に、女性を描くことがあまり得意ではないのかな?当代きっての”華”であるはずのスカーレットの魅力が本作ではあまり伝わって来ない。露出度の高い衣装で惜しげもなく肢体を晒してはいるものの、強烈な男性二人の対決の影に隠れて、彼女の存在感が希薄なのだ。『マッチ・ポイント』の彼女の方がずっと良い。

 物語の展開も、印象としては『デジャブ』で感じたようなモヤモヤが残った。「な、なんだこの転調は?!」―まったくもってトリッキーだ。単なるサスペンスじゃないんだよね。舞台の19世紀末から20世紀初頭は工業化の時代、科学の時代であったのだから(実在の人物を登場させて”リアル感”もそこそこまぶしていたり…) 、”ソレ”もアリなんだろうが、おそらく想像するに、鬼気迫る二人の心理劇がこの作品の一番の”肝”であり、物語の整合性や合理性よりも優先されたのだろう。

 キャスティングは主役級の3人を始めなかなか豪華。名優マイケル・ケインに、お久しぶりのデヴィッド・ボウイが脇を固めている(そしてLoRのゴラムも!)。ボウィはさすがに年を取ったなあ…仕方ないが、少しショック。米アカデミー賞撮影賞、美術賞にノミネートされただけあって映像も美しい。トリックの監修も当代随一のマジシャン、デビッド・カッパーフィールドが手掛け、いかにもお金をかけた映画という感じだ。こういう大仕掛けの”トリック”は観客も好きだろう。

 Yahooのレビューサイトには既に20以上のコメントが寄せられている。それらをザッと読んでみたが、本当に感想、評価はひとさまざま。たぶん、そういう映画なんでしょう。『ザ・シューター』よりは、個人的にはこちらの方が好み。(5月17日、試写会にて)

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しゃべれども しゃべれども

50_1  まず見終わって、寄席に行きたくなった。これ、夫婦共通の思い。(結構年季の入った)ジャニーズ系アイドル?の国分太一がかなり頑張って、主人公の二つ目の落語家を生真面目に演じている。たぶん寄席や独演会で生の落語を聴いたことのない人から見れば、その噺家ぶりは十分満足の行くレベルに達していると思う。素人の国分がよくぞここまで、と感心することであろう。

 しかし生の落語を何度も聴いた者には、最初から最後まで肩に力が入った彼の一生懸命さが、「ちょっと違うんだな」ということになる。やっぱり落語には”遊び”がなきゃ。飄々として掴み所のない”軽さ”がなきゃ。でもまあ、この作品は落語の出来不出来を問う話ではないからね。

  何と言ってもこの作品は、ひょんなことから落語教室を開くことになったうだつの上がらない二つ目の落語家と、それぞれに悩みを抱えた3人の”教え子”との交流を描く東京の下町を舞台にした、落語を肴に展開する人情物語ですから、あくまで(と言っても、見方によっちゃあ、落語もまた主役と言えるんですけどね。もちろん、国分さんの頑張りは認めていますとも!あ…よくよく考えてみれば、国分さんはそれで良いんですね。彼が巧い噺家だったら、そもそもこの物語は成立しない)

Photo_20 ”遊び”という点では子役の森永悠希くんが上手(うわて)ですね。彼は噺を自分のものにした上で自分自身も楽しんでいる。そもそもオーデションの段階で、唯一人「まんじゅうこわい」をそらで覚えていたのがこの森永くん、という逸話が残っているほどだから、只者じゃない(笑)。とにかく一席演じる彼の、さも楽しそうな様子に釣られて笑ってしまう。微笑ましいとでも言おうか。設定では、大阪からの転校生ということになっているが、その実バリバリの浪速っ子らしい。ここでも大阪弁独特のリズム、軽妙さが生きている。 劇中、彼が落語のお手本にしたのが、今は亡き桂枝雀いささかオーバーアクションの、在りし日の彼の一席が、映画の中でちょこっと拝めるのは何だか得した気分。同時に上方落語が彼を失った哀しさ、寂しさも感じて切ないよ。 

 映画には”華”もなきゃ、と言うことで、モデル・女優としても活躍する香里奈(←ちなみに彼女の映画初主演作『深呼吸の必要』も良いよ♪)が出演。クール・ビューティな彼女が、口の利き方を知らないぶっきらぼうな美女を演じて、結構楽しい。周囲からは高飛車だと誤解されがちな、こういう美女、案外身近にもいそうだ。ただ口下手なだけなのに。仏頂面の松重豊も、不器用な男の代表としては、やっぱり必要な存在だろう。そして主人公の祖母と師匠を演じて脇をキリリと固め、若手演者を助けるのが、ベテランの八千草薫伊東四朗。この二人がいなかったら、この映画は締まらなかっただろうな。その存在感と手堅い演技はさすがだ。正に人生の酸いも甘いも噛み分けた人ならではの包容力で、不器用な若者達を温かく見守っているという役柄にぴったり。

 本作は、97年度『本の雑誌』ベスト10 第一位に輝いたという小説(佐藤多佳子作)の映画化。原作者の佐藤さんはこの小説を書くまで、もっぱら落語を読物として楽しんでいたというから意外だ。落語は、噺家によって初めて”生命(いのち)”を与えられるものだと私はずっと思っていたから(もちろん、あくまでも私見)。監督は平山秀幸。平山監督と言えば、原田美枝子主演の『愛を乞う人』(←この作品は見応えがあった)を撮った監督だ。本作は傑作とは言わないまでも、見終わった後に心が温かくなるような珠玉の一品だろうか。そして思わず寄席に行きたくなってしまう、落語の魅力を伝える一品でもある。

 蛇足ながら、やはり噺家は落語を耳から覚えるようだ。だから言葉(の意味)は知っていても、その漢字は書けなかったりするのだろう。 

■映画公式サイト:http://www.shaberedomo.com/

Photo_23  そんでもって、久しぶりに夫婦で寄席に行って来た。寄席はやっぱり楽しいや。なんたってインタラクティブですから。噺家に絡まれたり(笑)、正楽師匠にリクエストして”紙”を切って貰ったり(左図がそれ。「何かリクエストがあればお切りします」と言われ、「あじさい」をリクエストしたら、ものの2~3分で仕上げてくれた。まさに名人芸!先着3名様?まで。欲しかったら、できるだけ前の席で力強くリクエストすること(笑))…平日の昼間だと言うのに、上野広小路の鈴本演芸場はほぼ満席に近い大入りだった。噺家のひとりが枕でこの映画について触れていたから、やはり映画の宣伝効果は大きいのだろう。原作小説もこれでまた注目されて売れているのではないだろうか?

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